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最終更新日時2012-03-22 ■目次 現代文とは国の指導要領:高等学校学習指導要領 (高校生向け) 大学受験予備校・教師横山雅彦 ページフッタこのページの1階層上のページ このページの1階層下のページ このページに含まれるタグ このページへのアクセス数 ここを編集 ■本文 現代文とは 国の指導要領:高等学校学習指導要領 (高校生向け) 第4 現代文 1 目標 近代以降の様々な文章を読む能力を高めるとともに,ものの見方,感じ方,考え方を深め,進んで表現し読書することによって人生を豊かにする態度を育てる。 2 内容 次の事項について指導する。 ア 論理的な文章について,論理の展開や要旨を的確にとらえること。 イ 文学的な文章について,人物,情景,心情などを的確にとらえ,表現を味わうこと。 ウ 様々な文章を読むことを通して,人間,社会,自然などについて自分の考えを深めたり発展させたりすること。 エ 語句の意味,用法を的確に理解し,語彙を豊かにするとともに,文体や修辞などの表現上の特色をとらえること。 オ 目的や課題に応じて様々な情報を収集し活用して,進んで表現すること。 3 内容の取扱い (1) 話すこと・聞くこと及び書くことの言語活動を効果的に取り入れるようにする。 (2) 生徒の読書意欲を喚起し,読書力を高めるよう配慮するものとする。 (3) 近代の文章や文学の変遷については,文章を読むための参考になる程度とする。 (4) 指導に当たっては,例えば次のような言語活動を通して行うようにする。 ア 論理的な文章を読んで,書き手の考えやその展開の仕方などについて意見を書くこと。 イ 文学的な文章を読んで,人物の生き方やその表現の仕方などについて話し合うこと。 ウ 文章の理解を深め,興味・関心を広げるために,関連する文章を読んだり創作的な活動を行ったりすること。 エ 自分で設定した課題を探究し,その成果を発表したり報告書などにまとめたりすること。 (5) 教材は,近代以降の様々な種類の文章とする。その際,現代の社会生活で必要となる実用的な文章も取り上げるようにする。なお,翻訳の文章や近代以降の文語文も含めることができる。 引用元: 高等学校学習指導要領 第1節 国語:文部科学省 大学受験予備校・教師 横山雅彦 もともと日本語に「論理」は存在しない。それは、西洋由来の学問を学ぶ道具として、明治時代に初めてもたらされたものである。ロジックを無理やり日本語にあてはめ、いわば「英語の翻訳」としてつくり出された新しい日本語のスタイルが、「現代文」である。 引用元:高校生のための論理思考トレーニング (ちくま新書) 現代文と格闘する (河合塾SERIES) ページフッタ このページの1階層上のページ このページの1階層下のページ このページに含まれるタグ このページへのアクセス数 今日: - 昨日: - これまで合計: - ここを編集
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第1講 接続語① はじめに さて、今回から現代文の学習が始まります。この授業は一応「入試現代文」、より具体的には、現行のセンター試験、私立・国公立大学の一般入試の問題に対応できる力の養成を目指していきます。「一応」と言ったのは、この授業の本当の最終目的が「入試の突破」であってほしくないという私(三木)の思いからです。入試現代文の対策をすることによる効果として、入学以降(あるいは社会人になってから)現れるものをいくつかあげてみましょう。 ① 難解な文章の「解読」をあきらめずに行うことができる ② 相手にストレスを与えない、論理的で分かりやすい文章を書くことができる・話し方ができる ③ 他者との議論・コミュニケーションを円滑に進めることができる(論点を明確にしたうえで議論できる) この三点、特に②と③は社会に出てからも本当に必要な能力で、私自身、現代文の勉強をしていなければこうした能力は身につけられなかったと思います。誤解を恐れずに言えば、現代文は「コミュニケーション」の能力を身につけるための科目なのです。そのような意識をもってこの授業に臨んでほしいところです。(ちなみに、私の大学での卒業論文のテーマは「コミュニケーション能力を高める現代文授業」です。) この授業は、問題演習を通した実地訓練が中心の授業です。皆さんが事前に問題を解き、頭をフルに動かすというのが第一条件です。そうやって頭を動かすからこそ、授業を受けた際に、講師のアプローチを聞くことで「自分に足りない点(不十分だった点)」に気付くことが出来ます。ぜひそういう意識を持って受講するようにしてください。 資料1 ~文章はどのように書かれるか? 「伝え方」の普遍的ルール~ どんな文章であっても、一番の目的は「読み手にメッセージを伝える」ことである。 ↓ 言い換えれば、頭の中にある思考を言語化したものが文章である。(思考→言語) ↓ 言語化して読み手に伝える際に、書き手側が意識することは、 ①読み手(どんな人をターゲットに文章を書くか) ②分かりやすさ ↓ この二点を両立することで、文章は人に伝わるものとなる。 ↓ ①に関して:読み手の範囲が狭いと、使う語彙が難解なものに ②に関して:誰が読んでも伝わるように、 妥当な表記・表現、明確な論理構成、客観性、一貫性、独創性などが意識されることになる ↓ これらが原則として守られているとすれば、「読めない」のは書き手ではなく読み手の責任! ↓ 書き手の立場になり、書き手のものの「伝え方」を一通り学習すべき! この講義は「接続語→悪文添削→概念語→論理展開」という順に展開していく。 一 次の文章を読み、 に入る言葉をあとの選択肢から選び、記号で答えなさい。 ① 宗教革命で起こったプロテスタンティズムは資本主義と密接な関係がある。魂の救済を求めるプロテスタントたちの宗教心は禁欲的な態度を生み出した。 ① 、彼らの貯蓄が増えた。貯蓄の増加は、プロテスタントの心情レベルでは神に奉仕する禁欲的生活の証しだが、その証しを強めるために貯蓄はさらに増えた。それは浪費されない。浪費されずに貯蓄を増やすために活用され、貯蓄がさらに増えた。 ② 貯蓄の増加は神への奉仕という目的にとっては手段である。 ② 、あるとき、手段が目的に転じればどうなるか。事実、転じたのだ。それは富の蓄積を目的とする投資行為になった。貯蓄のための貯蓄、それは資本主義の本質である。マックス・ウェーバーは資本主義の成立に先立つプロテスタントの宗教心の役割を強調した。 (同志社大学) A だが B その結果 C というのも 資料2 接続語のイメージ ①方向指示器 → 論の展開を読み手に分かりやすく示すためのツール ②接着剤 → 前後の内容をつなげる言葉。 逆に、この言葉が空欄になっていれば、前後からどんな言葉が入るか類推できる。 cf.修飾語=アクセサリー → なくてもOK。実際につけてみて合うか確認。 ③交通標識 → 必要なときに押さえないと事故が起きる 資料3 文頭接続語一覧 → 基本的な分類を大まかに押さえよう! 接続語理解における観点は3つ。①方向性、②重要性、③抽象度。 方向性 類型 役割 文頭接続語 順接系 換言系 単純換言 つまり、すなわち 要約 要するに、結局、このように、かくして、 いずれにせよ、つまり、すなわち 例示 例えば、実際、つまり、すなわち 因果系 因果 だから、それゆえ、そのため、ゆえに 逆因果 なぜなら、というのは 追加系 並列 また、同時に、 まず…そして…、第一に…第二に… 追加 さらに、しかも、加えて、そして 逆接系 逆接系 譲歩 →逆接 たしかに、もちろん、実際、むろん、なるほど →しかし、だが、ところが、ただ 対比 しかし、一方・他方、反面、それに対して 転換系 転換 さて、ところで、では 補足系 補足 ただし、なお、もっとも、ちなみに 留保 しかし、もっとも 資料4 「因果関係」を示す表現 資料3内にある因果の文頭接続語も当然大事だが、 「文中」に隠れている因果関係の表現も非常に重要であり、解答の根拠になることがある。 ↓ ①AからB、AのでB、AためB、AによってB、AことでB、Aに伴ってB、Aその意味でB、 AそのかぎりB、AにつれてB、AとともにB、AするあまりB、A以上B、AをきっかけにB、 AもあいまってB、AだけにB、AなかでB、AてB、A(=連用形)B、AとすればB ②BなぜならAから、BというのもAから、Bの背景にはA ※「背景」の他にも、根底、起源、契機… 資料5 「目的」と「手段」 ・「AためにB」 → A=目的 B=手段 ↓ 「BによりA」 → B=原因 A=結果 ・「自己目的化」=手段だったものがいつの間にか目的にすり替わること。 (例)大学で勉強するために受験勉強していたのに、いつしか受験勉強が目的になっていた。 資料6 「資本主義」 資本をもとにして利潤を得る経済のシステム 岩井克人の分類によれば、以下の三つに分かれる。 ①商業資本主義 … 安く仕入れた品物を違う場所で高く売る ②産業資本主義 … 資本家が労働者を安く雇い、商品を生産・販売することで利益をあげる ※資本家=生産手段を持っている人たち→持つ者→ブルジョワジー ※労働者=生産手段なし→持たざる者→プロレタリアート ③ポスト産業資本主義 … 情報や技術革新によってほかの企業を上回る利益をあげる →ポイントは「差異が利潤を生みだす」! (cf.2010年センター試験本試験第1問 岩井克人「資本主義と『人間』」) 資料7 「指示語」 いわゆる「こそあど言葉」 ※「前者・後者」「前述したように」などの事実上の接続語にも注意 同じ言葉の反復を避けるために用いられる(省略表現と言ってもよい)ものが大半 出てきたら、ある程度指示内容を意識して読む(指示内容がピンとこなければ、立ち止まることも重要) 傍線部や空欄の前後に指示語が出てきたら、その指示内容を確実に押さえる 資料8 文末接続語一覧 ①「ノダ構文」:~のだ、~のである ※「の」=「こと」「わけ」となる場合も →前文と「密接」な関係を持つ。 傍線部の次の文がノダ構文の場合、ノダ構文が解答の根拠であるケースが多い。 ②「~から」→前文に対する理由説明。 二 次の文章を読み、 に入る言葉を考えて答えなさい。 道具・手段としての外国語学習の必要性は、認めるにしても、もし言葉を学ぶ意義がそんな実用性のみに限られるとしたら、いささか寂しい気がします。 ① フランス語とか英語を知ることによって貴重な原典を読むこともできましょうし、ヨーロッパに旅行して実地に見聞をひろめることもできましょう。フランス語や英語が使われている社会の、広い意味での《文化》総体の研究に大いに役立つであろうことには、疑いをはさむ余地もありません。 ② 、その言語圏の文化の媒体であるということに加えて、言語はそれ自身一つの《文化》であり、《社会制度》であると言われています。 (2017年 成城大学 社会イノベーション学部〔一〕 丸山圭三郎『言葉とは何か』) A ①しかし ②だから B ①もちろん ②それゆえ C ①例えば ②だが D ①たしかに ②ところが 資料9 譲歩・逆接の構文 →一般論を一旦認めるふりをして、実際には自分の主張を強く主張する ↓ 客観性の保持につながる 資料10 「文化」と「文明」 ・文化…人間の感情や精神活動によって生み出されたもの。 地域や民族に独特のもの、という意味でも用いられ、その地域の言語・生活様式などをさす。 ・文明…人間が生み出した、おもに技術的、物質的な側面。 「文化」よりも世界的な拡がりをもつものをいうことが多い。 ex.西洋文明 cf.未開・野蛮=文明が行き渡っていない社会に対する言い方 ↓ ・「文化=精神的」「文明=物質的」という対比を押さえよ! 資料11 「媒体」 →二つのもの(人間と情報)を仲立ちし、つなぐ手段となるもの。メディア。 三 次の文章を読み、 に入る言葉をあとの選択肢から選び、記号で答えなさい。接続語が入らない場合は「C」を選ぶこと。ただし、すべての選択肢を一回ずつ使用すること。 〈ことば〉が〈もの〉の反映であるというためには、当然、〈ことば〉と〈もの〉は対応していかなければならないという前提が必要です。ところが、この前提に対する反証は、いとも簡単に見つけることができます。例えば、かの、嘘つきのパラドクス「『クレタ人が嘘つきだ』とクレタ島人が言った」がそれです。 ① この逆理たるゆえんは「自家撞着」で説明されます。もし、この言葉を発したクレタ人が嘘つきだったとすれば、「クレタ島人は嘘つきだ」ということばも嘘のはずですから、結局その人も含むクレタ島人は嘘つきではないことになってしまいます。その人が嘘つきでなかったとすれば、「クレタ島人は嘘つきだ」という言葉は本当のはずなので、その人は嘘つきになってしまいます。 ② これはどのみち前提と帰結とが矛盾を起こすようにできていることばで、 ③ その内容の論理的真偽を判定すること自体が不可能なのです。 (2003年早稲田大学教育学部第2問) A それゆえ B 要するに C なし 資料12 接続語なしで連続する二文 →原則的に順接的な文脈(換言や単純接続) 逆接なのに接続詞を用いないケースは相当まれ。 資料13 逆説(逆理・パラドックス) →一見矛盾しているように見えて、実は真理を述べている説。「急がば回れ」「負けるが勝ち」 ※「矛盾」と同じ意味で使われることも多い。 資料14 ジレンマ・自家撞着・二律背反・アンビバレンス ①ジレンマ=二つの事柄のどちらを選んでも悪い結果になること ②自家撞着=自己矛盾=自分の言動に矛盾があること ③二律背反=矛盾 ④アンビバレンス=矛盾した感情を抱くこと。心情の交錯。 (例)恋人に対して愛と憎しみを同時に抱く 資料15 言語論 ~〈ことば〉は〈事物〉を存在させる~ →①名前があるからこそ、初めて物が認識できるようになる。 ②言語には、もともと連続的だったものを分節化するという役割がある。 第2講 接続語② はじめに 第1講はいかがでしたか?初回なのに、一気にエンジンをかけて突っ走ってしまいましたが、あれがこの授業のスタイルです。皆さんの貴重な三〇分をもらってこちらは授業しているのですから、少しでも多くのことを持ち帰ってもらえるようにと、多少欲張りながらも授業内容を組み立てています。皆さんにとっては大変かもしれませんが、①皆さんの学習意識、②事前の予習(どれだけ頭を使ったか)、③授業中の集中力によって、この授業により得られる効果も大きく変わってきます。ぜひ頑張ってください。 さて、第2講もまた「接続語」がテーマです。第1講では、文頭に置かれる接続語だけに焦点を絞り、空欄補充で出題された際にどのように選んでいくのか、かなり丁寧に説明しました。今回は、文中・文末接続語といったものにも焦点を当てながら、皆さんの接続語に対する「感度」が少しでも上がるような授業を展開していきます。そのためにも、まずは予習。どんな言葉を埋めてやれば、論理的に意味の伝わる日本語になるのか、ということをよく考えながら、まずは事前にしっかり粘り強く問題に取り組んでください。 一 次の文章を読み、 に入る言葉を考えて答えなさい。 学校教育などによって誰でも知っている、アメリカ大統領であったリンカーンが、南北戦争時にゲティスバーグで行なった演説の、有名な末尾部分「人民の、人民による、人民のための政治(government of the people, by the people, for the people)は、この地上から消滅することはないでしょう」は、民主主義ということばを含んではいないものの、後世、民主主義の理念を要約するフレーズとして引用されてきた。このことばは現在の民主主義においても有効な指針だということができるだろうか。問題は何より、民主主義の主体とされる「人民(people)」とはいったい誰であるのか、ということであろう。しばしば指摘されるように、リンカーンの政治的意図は何よりも、奴隷制の存廃をめぐって大きな亀裂が入りかけたアメリカ国民の再統一にあったことは明らかであり、ここでのピープルとはアメリカ国民のことを指していると考えて大きく間違っていることはないだろう。 、政治思想上のテキストは、当時の文脈を離れて生命を持ち続けるのがつねである。現在、このことばが生きているとして、ピープルとは何かと問われるならば、特定の一国民にこれを限定するのは、恣意的だとする印象を免れない。 (2018年大阪市立大第二問 森征稔『変貌する民主主義』) 二 次の文章を読み、 に入る言葉を考えて答えなさい。 ① おそらく私たちは、言葉という不思議な生き物の未来については、人類の未来について以上に楽観的になってもいいのではないだろうか。 ② というのも、言葉は人類のありとあらゆる惨事と残虐と愚かしさを目撃し、克明に記録しながらも絶望することなくしぶとく生き延び、時代の激変を通じてみずからもしなやかに変容しながら、それでいて言葉でありつづけることを止めないで今日まで来ているからだ。ぼくは人智を超えた神秘的な言霊などのことを言っているわけではない。言葉は人間の作り出したものでありながら、人間以上の生命力を持ち、人間社会を逆に作っていく働きさえ備えている。コンピュータ程度の発明に簡単にやられはしないだろう。 、それは潜在的に恐ろしい力でもあり続ける。言葉を支配する者は、結局のところ、世界を支配することになるからだ。 (2007年一橋大学 問題三 沼野充義『W文学の世紀へ』) 資料16 民主主義 人民が主権をもち、その主権を自ら用いようとする政治的な考え方。デモクラシー。 資料17 空欄補充問題の考え方 もともと空欄のある文は存在しない →そこに出題者が介在 → 「ここを空欄にすれば、前後の文脈を利用して欠損を補えるはずだ」(建前) ↓ 方針① 空欄前後の徹底分析 → (a)前後の文法要素(主述の対応、修飾語) (b)前後の文脈を確認(指示語、接続語) (ミクロの理解) 方針② 空欄を含む形式段落・意味段落におけるメッセージを徹底的に確認 (マクロの理解) 資料18 逆接の接続語を完全理解しよう! ①逆接の役割:先行する句・文から予想される内容とは異なる結果を示す。「予想外の展開」。 ②先行する句・文が譲歩構文となることも多い。 ③後続する句・文のほうが内容的に重要である。 ※先行する句・文が一般論のとき ④後続する句・文の内容を問われたときに、先行する句・文の内容を裏返して考えるとよいケースがある。 資料19 読解時における接続語の扱いについて (誤読を導きやすい例) 「『しかし』があるから、逆接だ!」 (正しい読解例) 「一旦読者側に譲歩して、『しかし』と来ているから、逆接だ!」 ↓ 形式からすべてを導く読解は危険。 常に「意味・内容」を探ること。 「しかし」があるから逆接なのではない。逆接があるから「しかし」が使われているのだ。 資料20 筆者の主張を示す文末表現 ①主観的な表現 「~と考える(思う)」「~と私は言いたいのである」 ②提言的な表現 「~すべき」「~しなければならない」「~してはならない」「~が大切(重要・必要)だ」 ③反語的な表現 「~ではないか」「~ではないだろうか」「~ではなかろうか」 ④断定的な表現 「~のである」 ※「Aとは」という定義表現とセットになることも多い 資料21 「留保」とは →筆者のメインメッセージに対するブレーキ。 ↓ 自分の主張に対してブレーキをかけることで、客観性を保持している 三 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 人間にとって最大の不幸は、もちろん、この物質的欲望さえ満足されないことであるが、そのつぎの不幸は、欲望が無限であることではなくて、それがあまりにも簡単に満足されてしまうことである。食物をむさぼる人にとって、何よりの悲しみは胃袋の容量に限度があり、食物の美味にもかかわらず、一定度の分量を越えては食べられない、という事実であろう。(中略)言わば、物質的な欲望の満足は、それがまだ成就されていないあいだにだけ成立し、完全に成就された瞬間に消滅するという、きわめて皮肉な構造によって人間を翻弄する。 ② このことは、いいかえれば、物質的な消費が行動としていささか特殊な構造を持ち、一定の目的を志向しながら、けっしてその実現を求めない、ということを意味している。この場合、目的とは、もちろん、なんらかのものを消耗することであるが、欲望はそれをめざしながら、しかし、同時にそれにいたる過程をできるだけ引きのばそうとする。ここでは、言わば目的と過程の意味が逆転するのであって、ものの消耗という目的は、むしろ、消耗の過程を楽しむための手段の地位に置かれるのである。 ③ 食欲についていえば、それは、最大量の食物を最短時間に消耗しようとするのではなく、むしろ逆に、より多く楽しむために、少量の食物を最大の時間をかけて消耗しようとする。(中略)われわれは、一片の牛肉を楽しむために、たんにその調理に時間をかけるだけではなく、それを給仕人の手をわずらわせて食卓に飾らせ、おごそかな手つきで切りわけておもむろに口に運ぶことを喜びとする。そのために、われわれは、さらに手数のかかる食器や食堂の調度を整え、煩雑な作法と食卓の会話に気を配り、食前酒の選択から食後の音楽まで、ありとある演劇的儀式の創造に心を労している。 (山崎正和『柔らかい個人主義の誕生 消費社会の美学』) https //ameblo.jp/oreoreoreomae/entry-11734161318.html 問 下線部とは具体的にどうすることか。本文中から九字で探し、書き抜きなさい。 資料20 皮肉・風刺・寓意・寓話 ①皮肉=表向きの表現の裏に、それとは反対のことを含ませる言い方。アイロニー ②風刺=遠回しに社会や(力のある)他人などを批判すること ③寓意=それとなくある意味をほのめかすこと。アレゴリー。 ④寓話=教訓または風刺を含めたたとえ話。(例 イソップ童話) 資料21 主要ではないが押さえておくべき文頭接続語一覧 ①「むしろ」「それどころか」=言い直し。後ろに力点。 ②「いわば」=特殊表現への換言。直後は記述問題の解答には使いにくい。 ③「逆に」=逆方面(逆視点)からの換言。逆接でないことがポイント。 ④「ともかく」=それまでの内容を一気にまとめあげる。 ⑤「そもそも」=話を切り替えて、より深い話に掘り下げて本質に迫る。 資料22 文中接続語一覧 ①「が」(接続助詞)=逆接or対比 ②「AというB」=同格。「AというB」→「A=B」。私立大学ではBを空欄にする問題が頻出 ③「AではなくB」=否定。A=一般論、B=筆者の主張、となるケースが多い。 ④「AよりもB」=比較。 ⑤「AだけではなくB」=追加。 ⑥因果関係を示す表現 → 資料4 資料23 入試現代文の本質(林修作成) ◎この図式から言えること ① 根本的には、「筆者の書いた文章」の理解を問うのが現代文という科目である ② 出題者は、筆者の言っていることがよく分かる人間である → 同じ理解の仕方が受験生もできるのかどうか、問いたい ③ 受験生においては、出題者(=大学教授)の求めるレベルの本文読解力を身に付ける必要がある → 決して本文の内容に対して感想・意見を言うことではなく、 シンプルに本文の内容を理解・整理することが大切 資料24 「読む」とはどんな作業か 「読む」=「読解」=読みながら意味を考え、理解する。時には立ち止まり、俯瞰的に展開を整理する。 (評論文においては、筆者の伝えたいメッセージを理解すること) →そのためには… ①文章と対話するつもりで読もう。 ②「抽象と具体の往復」を意識しよう。 →特に、抽象的な内容に対して具体例を考えたり、 自身の体験を想起したりすることが重要。 ↓ 字面をただ追うという受動的な作業は、決して読解とは言えない! ↓ 主体的かつ能動的な姿勢で本文を追いかけることによって、内容が理解できる。そして、解答の根拠の発見が非常に容易になる。(この逆、「ウォーリーを探せ」的な解き方が非常に危険) 第3講 悪文添削① はじめに 現代文の文章、特に評論文を読解する上で基本のアイテムとなる「接続語」についての学習が前回をもって終了しました。今回からは、これまでとは少し毛色の違うテーマ、「悪文添削」を扱っていきます。ここでいう「悪文」は、「誤文」はもちろんのこと、「読みにくい文」なども含みます。日本語として不適切な部分や、読んでいて違和感を覚える部分を発見し、直すという作業を通して、的確で伝わりやすい日本語を書く能力を鍛えていきます。 そして、ここで鍛えた能力が、今後現代文の問題を解くときにかなり役に立つはずです。具体的には、①日本語の誤りや読みにくさで減点されることはなくなる=記述力の向上、②本文中に出てくる悪文を分かりやすく言い換えることで、理解がはかどる=読解力の向上、といった効果を得ることができるはずです。ぜひ、意識を高く持ち、予習に取り組んでください。 予習の際には、問題の手前にある「資料」を熟読し、ポイントを把握したうえで問題に着手するとよいでしょう。そして、当然ですが答えは実際に全文書きましょう。「書く」ということを徹底するということもまた、第3講・第4講の目的なのです。 資料25 悪文添削ポイント① ~書き言葉にふさわしい言葉遣いに直す~ (×)「です・ます」 → (◎)「だ・である」 (×)「とか」 → (◎)「や・など」(※) (×)「みたいな」 → (◎)「ように」 (×)「□□だ」 → (◎)「□□の一つだ」 cf.(×)「□□だから」 → (◎)「□□は理由の一つだ」 (×)「する・やる」 → 多義性があるので、極力避ける (×)稚拙な言葉、難解すぎる言葉 → 極力避ける 一 以下の文をそれぞれ適切な文に直しなさい。 ① 科学・技術は日本の発展にとって重要なものです。 ② エレクトロニクス産業は、日本の基幹産業だ。 ③ 赤い色の液をガラスに塗るみたいな実験を行った。 ④ 生産計画とかの会議に出た。 ⑤ 試作品を作る実験をやった。 ⑥ 会議開催検討時、参加者の都合の拝聴の必要があるから、時間の設定に苦慮する。 資料26 悪文添削ポイント② ~冗長な文を簡潔明瞭な表現に直す~ ①データの羅列:「それぞれ」を用いる 「Aは○であり、Bは△である」→「A、Bはそれぞれ○、△である」 ②二重否定は肯定形にする (例)「わからなくもない」→「わかる」 ③適切な時制を用いる 現在形:今だけでなく、過去の出来事にも、これから先も必ず引き起こし続ける動作(状態)のときにも使える。 過去形:過去の出来事のときに使う。今は行われていないことを暗示する(※)。 未来形:今はまだ行っていないが、これから先起こる可能性があることを表すときに使う。 ※似た語句として完了がある。完了は、「その動作が実際に行われた(行われている)」ことを強調するための表現として使用される。 二 以下の文をそれぞれ適切な文に直しなさい。 ① 試料Aの長さは五センチであり、Bのそれは八センチである。 ② 試料と構造と表面物性は対応していないとはいえない。 ③ すべての物体は、お互いに引力を及ぼし合っていた。 資料27 悪文添削ポイント③ ~主述関係を明確化する~ ①主語は、文脈上明らかな場合は省略可。 ②一文あたりの述語の数は、接続助詞の数+1である。 ③主語も述語の数だけ対応しなければならない。ただし、①により数がずれる場合は当然ある。 三 以下の文をそれぞれ適切な文に直しなさい。 ① 化合物Aの可視域の透過率を測定した。八〇%であった。 ② 太陽から電磁波と荷電粒子が放射される。地球上空の酸素分子や窒素分子と衝突するとオーロラが発生する。 ③ ガソリン自動車の動力源は内燃機関である。電気自動車はモーターである。 第4講 悪文添削② はじめに 悪文添削の二回目です。前回の内容は、もしかすると「簡単すぎる」と感じた方もいたかもしれません。今回は、「一文が長すぎて修飾関係がわかりにくいもの」などを扱っていきます。今日の内容をきちんと理解し、「なるほど、こう直せば読み手にストレスを与えずに済むな」と実感することができれば、あなたの今後の表現力が大きく変わることは間違いありません。ぜひ、ポイントを意識して取り組んでみてください。 資料28 悪文添削ポイント④ ~文を分ける、接続語を補う、語順を変える~ ①一文の中に詰め込むポイントは原則一~三つに限定すること。 ②特に一番大切な部分(必ず書かなければいけない部分)は、文末に書く。 ③修飾語に関しては… (a)誤解しないような位置に書く。(b)「、」を的確に用いる。 ④日本語は英語と違って、語順を変えることが出来る。 ⑤長い文は複数の文に分ける→接続語を利用してつなげる ⑥重複を避けるために、指示語を用いる ⑦同じ言葉の繰り返しは避ける (例)「日本の歴史の学習の意義」→「日本の歴史を学ぶ意義」 (例)「人が多いため落ち着かないため移動した」→「人が多く落ち着かないため、移動した」 (例)「光学機能、電気機能、化学機能などの種々の機能」→「光学機能、電気機能、化学機能などの機能」 資料29 日本語の長い一文を読むコツ ①述語→主語を確認。→残った部分が修飾語 ②修飾語がどこにかかっているか確認 四 以下の文をそれぞれ適切な文に直しなさい。 ① 自然科学は多くの実験結果に基づいて発展し、さまざまな法則が導き出され、 実験も法則も研究者の思考により生み出されるから、自然的な産物と言え、 一方、工学ではモノを創り出そうという技術者の強い信念が基本となる。 ② 周期表は、元素を原子番号順に並べた表であり、元素の性質を系統的に理解できる表であり、 最初、メンデレーエフは原子量の順番に並べたが、元素の並べ方はいろいろ提案され、 現在では元素を一~十八族に分ける長周期表が一般的である。 ③ 私の姉は泣きながら必死に逃げる弟を追いかけた。(泣いたのは姉) ④ シベリアが隕石に落ちた。 ⑤ キュリー夫人を、放射性物質であるとラジウムが述べた。 ⑥ 石油や石炭を多量に燃焼することにより大気中の二酸化炭素量が増大すると温室効果が強まり 地球の温暖化が急速に進行して気象変動が頻発する。 ⑦ 都市鉱山は廃業された工業製品から有用な資源を抽出・再利用するからエコ型社会の実現に寄与できる。 資料★ 悪文添削ポイント⑤ ~修飾語がどこにかかるか~ ◎修飾語句を上手に使いこなすためのコツ ・修飾語句と被修飾語句(修飾語句が説明している語句のこと)の距離を近づける。 ・修飾語の働きがある後置語(※1)を2回以上使う時は、別々の修飾語の働きがある後置語を使うこと。 ・2つ以上の長い修飾語句(※2)を重ねないこと ・修飾語句の長い文を短い2文に分けること ※1 名詞の後ろに置く言葉のこと。「の」や「ついて」や「おいて」などである。 ※2 基本的に、連体形や連用形の語句のこと。 五 以下の文をそれぞれ適切な文に直しなさい。 ① 地熱発電は、高温の地中にある水を利用するものである。 ② 地熱発電は、エネルギー利用率が高い地下の熱水を使う発電方法である。 第5講 概念語① はじめに さて、今回から語彙の学習に入ります。ただ、誤解してほしくないのですが、この二回の授業を受講することで皆さんの語彙力が十分なものになる……わけではありません。そもそも語彙力増強のための基本アイテムは「辞書」です。わからない言葉に出会うたびに辞書を引き、語彙のストックを増やしていくというのが本来のあり方です。実際、私立の一部の大学では、語彙力が最終的な合否の分かれ目となることもあるのですが、そういう場で戦うことになった際、「市販の語彙の問題集を一冊完璧にした」程度ではもはや勝負にならないのです。ですから、授業外であっても、まめに辞書を引く習慣をつけて、知っている語彙を増やしていくという地道な作業を積み重ねていってほしいと思っています。 と、このように書いてしまえば、「なら、辞書を使えば完結する学習を、なぜわざわざ授業二回分を使ってやるのか?」と疑問に思われる方もいるでしょう。これには明確な理由があります。今回、授業内で扱う語彙は、①概念対をなすもの、②頻出テーマに関わるもの、に限定しています。これらの中で出てくる語彙というのは、分からない言葉を辞書で一回引いただけでは理解したとは到底言えないものばかりなのです。例えば、「普遍」という言葉は「普遍←→特殊」という対比軸の中で理解しなければなりませんし、「秩序」という言葉は言語論の基本である「混沌→分節化→秩序」という枠組みの中で理解しなければいけません。そう、今後皆さんが難解な文章を理解するために必要になってくる「枠組み(フレーム)」や「軸」を与えるのがこれからの二回なのです。ぜひそのことを念頭に置き、学習に取り組んでください。 資料★ 最も基本となる概念語 ①客観・主観 客観 = 特定の個人的な考えから独立して、一般性・普遍性をもったもの。 ・主観 = 自分ひとりだけの考えや感じ方。 ②普遍・特殊 ・普遍 = あまねくゆきわたること。すべてのものに共通してあてはまること。≒一般 ・特殊 = 普通のものと違っていること ③一般・例外 ・一般 = 特殊な点がなくありふれていること。さまざまなものに広く認められ、成り立つこと。普通。≒普遍 →一般化 = あるグループの一部の事物について成り立っていることから、 そのグループ全体について成り立つように論をおしすすめること。 ・例外 = 普通の例からはずれていること。原則にあてはまらないこと。≒特殊 ④絶対・相対 絶対 = 他との比較・対立を絶していること 相対 = 他との関係のなかで存在・成立すること →相対化 = 他との関係のなかで物事を捉えること ≒批判的に捉える、冷静に捉える、客観視する ⑤抽象・具体 抽象 = 多数の事物における共通の側面・性質を抽(ぬ)き離して把握すること。また、把握されたもの。 その際他の不要な側面・性質を排除する作用を伴うが、これを捨象という。 抽象と捨象とは同一作用の二側面を形づくる。 具体 = さまざまな属性によって形成されながら独立して存在する、実体的・個別的なもの。 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 真理が〔A〕的なものにすぎないと言うときには、その真理は、あるものの見方や時代や文化的背景などによって限定された、特殊でローカルな真理にすぎないと考えられている。一方、そんなものは真理の名に値するものではなく、真理とはいつでも、どこでも、誰にでも、共通に成り立つ一般的なものであると考えるとき、真理の〔B〕性が立ち上がる。つまり、相対性は〔C〕性として現われ、絶対性は〔D〕性として現われる。 (入不二基義『相対主義の極北』) 問一 空欄〔A〕~〔D〕に当てはまる言葉を選べ。 ア 絶対 イ 相対 ウ 普遍 エ 特殊 二 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 二元論によれば、身体器官によって捉えられる知覚の世界は、主観の世界である。自然に本来、実在しているのは、色も味も臭いもない原子以下の微粒子だけである。知覚において光が瞬間に到達するように見えたり、地球が不動に思えたりするのは、〔A〕的に見られているからである。自然の感性的な性格は、自然本来の内在的な性質ではなく、自然をそのように感受し認識する主体の側にある。つまり、心あるいは脳が生み出した性質なのだ。 ② 真に実在するのは物理学が描き出す世界であり、そこからの物理的な刺激作用は、脳内の推論、記憶、連合、類推などの働きによって、秩序ある経験(知覚世界)へと構成される。つまり、知覚世界は心ないし脳の中に生じた一種のイメージや表象にすぎない。物理学的世界は、人間的な意味に欠けた無情の世界である。 ③ それに対して、知覚世界は、「使いやすい机」「嫌いな犬」「美しい樹木」「愛すべき人間」などの意味や価値のある日常物に満ちている。しかしこれは、〔B〕が対象にそのように意味づけたからである。こうして、物理学が記述する自然の〔C〕的な真の姿と、私たちの〔D〕的表象とは、質的にも存在の身分としても、まったく異質のものとみなされる。 (河野哲也『意識は実在しない』) 問一 空欄〔A〕~〔D〕に当てはまる言葉を、それぞれ「主観」あるいは「客観」の二つから選べ。 問二 「表象」と対比的な意味で用いられている言葉を二字で抜き出せ。 三 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 科学は〔A〕的な経験の一面を〔B〕し、〔B〕化された経験は、他の同類の経験と関係づけられて分類される。このように〔B〕化され、分類された経験は、原則として、一定の条件のもとで繰り返されるはずのものである。従って科学は、法則の〔C〕性について語ることができるのである。たとえば一個の〔A〕的なレモンは、その質量・容積・位置・運動等に還元されることによって、(その他の性質、たとえば色や味や産地や値段を〔D〕されることによって)、力学の対象となり、またその効用や生産費や小売価格などに還元されることによって、(その他の性質、たとえば位置や運動量などを〔D〕されることによって)、経済学の対象となる。力学や経済学は、〔A〕的なレモンについてではなく、〔B〕化された対象について、その対象が従う法則を調べるのである。 (加藤周一『文学とは何か』) 問 空欄〔A〕~〔D〕に当てはまる言葉を選べ。 ア 抽象 イ 具体 ウ 普遍 エ 特殊 オ 捨象 四 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 詩歌などの創作は個性の表現であると、一般には考えられている。二十世紀になってそれに対して、異論を提出したのが、T・S・エリオットである。 エリオットは「伝統と個人の才能」で言う。詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。 そういうことをのべたあとで、エリオットは有名なアナロジーをもち出す。 「詩の創造に際して起るのは、酸素と二酸化炭素(亜硫酸ガス)とのあるところへ、プラチナのフィラメントを入れたときに起る化学反応に似ている」、というのである。後年、この化学的知識は正確でないと言われたけれども、それはともかく、これは触媒反応といわれるものである。 (中略) 詩人は自分の感情を詩にするのだ、個性を表現するのである、という常識に対して、自分を出してはいけない、とした。個性を脱却しなくてはならないというのである。それでは、個性の役割はどうなるのか。そこで、触媒の考えが援用される。 酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立ち会い、化合をおこしただけである。 詩人の個性もこのプラチナのごとくあるべきで、それ自体を表現するのではない。その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、"個性的"でありうる。 これは、それまでの芸術的創造の考えに一石を投ずることになり、エリオットの"インパーソナル・セオリー"(没個性説)と呼ばれて有名になった。 欧米では、この考え方は斬新であったけれども、われわれの国の文芸では、さして珍しいものではない。 もともと、わが国の詩歌は、主観の生の表出を嫌い、象徴的に、あるいは、比喩的に心理を表出する方法を洗練させてきた。その端的な例が俳句である。 俳句では、主観は、花鳥風月に仮託されて、間接にしかあらわれない。自然事象の結合は、俳人の主観の介在によってのみ行なわれるけれども、主観がぎらぎら表面に出ているような作品は格が低くなる。主観が積極的に作用しているのは、小さく個性的な作品を生み出す。 真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。一見して、没個性的に見えるであろうこういう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。 (2012年 立川高校〔四〕 外山滋比古「思考の整理学」) 問 傍線部について、その理由として最も適切なものを次のうちから選びなさい。 ア 欧米では一つの事象を個性的に表現することを重視したが、日本では主観を積極的に作用させる技法がもてはやされたから。 イ 欧米では主観が個性を表現するものと考えられてきたが、日本では客観的な表現の中だけに個性が表れると考えられたから。 ウ 欧米では主観を排して間接的に表現する技法が未発達だったが、日本では象徴的に心理を表す方法を洗練してきたから。 エ 欧米では主観を象徴的に表現するという伝統があったが、日本では個性は必要とされずむしろ邪魔だとされてきたから。 資料★ ボキャブラリーチェック!「能動と受動」 能動=自己の動作・作用を他に及ぼすこと 受動=他から動作・作用を受けること。受身。 ※能動的=積極的、受動的≒消極的 資料★ ボキャブラリーチェック!「直接と間接」 直接=間に何も介在しないで(挟まず)、対象にじかに接すること。 間接=対象にじかに働きかけないで、間に他のものを置いて事を行うこと。 資料★ ボキャブラリーチェック!「象徴と比喩」 象徴=直接的に知覚できない抽象的な概念を、それを連想させる具体的事物によって間接的に表現すること。 また、その表現に用いられたもの。シンボル。 比喩=事を説明するとき、これと類似したものを借りてきて、それになぞらえて表現すること。 ↓ ①直喩= 「ようだ」「ごとし」「似たり」などの語を用いて、二つの物事を直接に比較して示すもの。 「雪のような肌」「蜜に群がる蟻のごとく集まる」の類。明喩。シミリ。 ②隠喩=「…のようだ」「…のごとし」などの形を用いず、そのものの特徴を直接他のもので表現する方法。 「雪の肌」「金は力なり」の類。暗喩。メタファー。 資料★ 主要な接頭辞 ①超~ (例)超高齢社会、超自然的、超現実的 =~を超えている =~という領域から外れている =~でない ②没~ (例)没個性、没価値=価値自由=価値判断に立ち入ってはならない。 =~がない ③脱~ (例)脱呪術化 =~を抜け出すこと ④唯~ (例)唯物論、唯心論、唯我論(独我論) =~だけが存在すること 資料★ 落とし穴語句 ①本文不在の100%・0%表現 ②本文不在の限定表現 ③本文不在の因果関係 ④本文不在の対比・比較 ↓ 本文不在だから誤答なのは当然だが、見落としやすい → これら①~④が出てきたらその箇所の正誤判定をしっかり行うこと! 第6講 概念語② はじめに 前回は、「客観←→主観」、「普遍←→特殊」など、評論で頻出する概念語を取り扱いました。空欄補充の問題を通して、「この状況を的確に示す言葉は何だろう?」と頭を使ってもらいました。このようにして概念語の一つ一つをからだに浸透させてゆくという経験こそが、皆さんの足腰を本当の意味で強くしてくれるのです。 改めて、概念語を強化しておくことの意味を考えてみましょう。前回学習したさまざまな概念対、そして今回学習する頻出テーマにおける概念語――これらは一種の「スキーマ」を皆さんに与えてくれます。「スキーマ」とは認知心理学の用語ですが、簡単に言うと「枠組み的知識」のことです。現代文の文章が難しい、よくわからないと思っている人がこれを獲得すると、これまで混沌として見えていた世界に対して意味付けができるようになるのです。(この一文がよく分からない人は、今日の学習を頑張ってください。)そして、このように手持ちの概念を増やしていくことは、現代文の読解をスムーズにしていくだけではなく、皆さんの頭が「思考しやすい」頭になり、より透徹した視野で思考を整理することができるようになります。これこそが語彙学習の本来の意味なのではないでしょうか。このように概念語学習の意義・効果というものを深く理解したうえで、学習に励んでほしいと思います。それでは本講も、頑張ってください。(今回はいきなり解いてしまって構いません。) 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 言語理論のいう分節化とは、連続的な世界を言葉によって切りとり、指示する作用のことである。言葉は音素列や文字列で構成される不連続なものであるから、分節化は連続世界の離散化である。この離散化ということが、必然的に言葉のあいまいさを生みだすもととなる。誰にとっても共通な、確定的な部分への離散化ということは、空想的な所作である。あらかじめ、言葉が対象の世界のこれこれの確定領域を指すように作られているとすれば、まったく同一の領域に出会う以外に、そして、出会うことはほとんどないであろうから、そのような言葉を使用することはできず、したがって、その言葉は失われていくであろう。すなわち、言葉によって切りとられる対象世界の部分領域はあいまいな周辺をもち、人によって定義が異なり得て、また、そのような仕方で世界を分節化する言葉が一般に存在し得ることになる。にもかかわらず、表面的には確定的な定義をもつ言葉があるとしても、日常世界で使用されるときには、あいまいな領域を指示するのである。「机」ということばによって切りとられた世界の断片は確定的な周辺をもっていない。しかも、この周辺は常に揺れ動くのである。時によって、場所によって、話し手によって。シャープに思える言葉も、実際の使用においては、意味内容はあいまいになる。たとえば、ホテルで、「チェックアウト・タイムは十一時です」というとき、この「十一時」はたぶんに十二時ごろまで周辺がのびている十一時である。 (1993年 センター試験第1問 管野道夫「ファジィ理論の目指すもの」による) 問 傍線部について、筆者は「誰にとっても共通な、確定的な部分への離散化」を、なぜありえないというのか。 その説明として最も適切なものを次の①~④のうちから一つ選べ。 ① 一つ一つの言葉がそれぞれはっきり確定された世界の一部分を指すようにできているのであれば、 そのような指示対象がまったく固定してしまう言葉は、ほとんど実際の役に立たないから。 ② 「確定的」という概念と「離散化」という概念は、原理的に相矛盾するものだから。 ③ 言葉は、音素列・文字列で構成されているもともと不連続であいまいなものだから。 ④ 離散化、すなわち言葉にとって切りとられる対象世界の部分領域は、本来客観的にあいまいな定義を もつものだから。 資料★ 言語論の基本① ~分節化~ 混沌(カオス)=物の区別のはっきりしない流動的な世界 ↓命名=分節化=ひとつながりのものをいくつかの区切りに分けること ↓ →恣意性=表現と内容との間に自然な結びつきが存在しない 秩序(コスモス)=諸要素が相互に一定の関係・規則によって結びつき、調和を保っている世界 (例)虹→日本では赤・オレンジ・黄・緑・水・青・紫の七色。アメリカでは黄・水が抜けて五色。 ※資料15「言語は事物を存在させる」→再度復習しよう! 資料★ 言語論の基本② ~言語の多義性~ 現実世界は無限に広がっているが、言葉は有限にしか存在しない ↓ 言葉は、たった一言で様々なもの(状況)をまとめて表すことが出来る=言語の多義性 ≒解釈の多様性 ≒言葉の抽象性 ≒言葉の曖昧性 ↓ 現実(事実)と一対一で対応する言葉はない 資料★ 選択肢付きの問題に対する考え方 受験生が本文の内容をどれだけ理解できているかを問うのが現代文という科目 ↓ 本来は、紙に書かせて(記述させて)本文理解を試したい ↓ しかし、採点の都合上なかなかそれは難しく、マーク式とならざるを得ない ↓ それでも、受験生の実力が判定できるように選択肢は作成する ↓ つまり、引っかけの選択肢を用意して、本当に理解している受験生にだけ正解を与えようとする ↓ とすれば、受験生側の対応としては、 記述問題を解くかのように解答を頭で用意したうえで、選択肢のチェックをかけるのが理想 ということになる。 二 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 近代社会の基本原理は「合理主義」、あるいは「合理化」にあるということは、マックス・ウェーバーの指摘をまつまでもなく、明らかなことであるが、なおこれに関して一つの点が指摘されねばならない。一つは「近代合理主義」の精神がすぐれて西欧的なものであったとしても、「合理主義」ということばを広く解釈すれば、それは十六、七世紀以降の世界全体を通ずる大きな傾向であって、西欧のみが、無知と蒙昧の暗夜のなかにただ一つ光り輝く世界であったわけではないということである。神秘主義、直観主義、感性主義、あるいはやみくもな行動主義に対立するものとして、理性と悟性の尊重、人間の行動と社会の組織における論理と計画の重視等々を意味するものとして、「合理主義」という概念を理解すれば、それは西欧のみならず、近代において栄えた世界各国においても共通に見られたものであるといってもよい。宗教と魔術からの解放を意味する「世俗化と脱呪術化」ということは、近代社会の基本的特徴であるといわれているが、その限りでは、それは西欧社会にのみとどまる現象ではない。 ② たとえばわが国の江戸時代は、世俗化と脱呪術化の著しく進んだ時代であったということができる。キリシタン弾圧後、江戸時代において宗教は、完全に宗教としての力を失ってしまったということは、ほとんど異論のないところである。もちろん迷信や、宗教的慣習は残っていたけれども、江戸時代の支配階級である武士はほとんど宗教に依存するところがなかったし、またその支配イデオロギーである朱子学は、それなりに一貫した合理的な世界観に基礎づけられていたのである。江戸時代に、実験的自然科学はともかくとして、人文科学や数学の面で大きな進歩が見られたことは偶然ではない。 ③ また中国の清帝国は十七世紀半ばより十八世紀末まで、康熙・雍正・乾隆三帝の時代を通じて空前の繁栄を誇ったが、その社会の精神も、世俗的かつ合理主義的なものであった。科挙にもとづく官僚制は、システムとして完成の域に達し、ヨーロッパ諸国は文官任用試験の制度を中国から輸入したのである。清代の代表的な学問である考証学は、合理主義と批判的精神に貫かれていた。 ④ したがって「合理主義」ということは、広い意味では、近代のいわば世界精神であったのであって、それは宗教的信仰が、七・八世紀から十五世紀ごろまでの中世の世界精神であったのに対応しているのである。それゆえ、近代西欧社会の「合理主義」精神に対して、それ以外のすべての社会を支配しているものが、すべて「伝統主義、呪術主義」であるかのように説く一部の人々の議論は基本的に受け入れ難い。「暗黒の中世」という観念が誤りであることは、最近しばしば強調されているが、それと同じ意味で「①無知と蒙昧の非西欧」という観念も訂正されねばならない。 ⑤ しかしながら、第二に近代西欧社会が、決定的ないくつかの点で、非西欧社会、あるいは前近代社会と異なっていることは事実であり、そのことはいくら強調してもしすぎるということはない。それは産業資本主義の発展、民主主義的な市民社会の確立、自然科学とそれにもとづく技術の発達である。そうしてそれによって近代西欧社会は、史上かつてないエネルギーを噴出させ、世界を、たんに力によってだけでなく、思想的・文化的にも支配するようになったのである。そういう意味で近代は、「西欧の時代」であった。そうしてこのような近代西欧社会を支えたものが、②合理主義一般とは区別されたものとしての「近代合理主義」であった。「近代合理主義」の特徴は、一つにはその能動的、積極的、徹底的性格にある。すなわちそれは、宇宙の体系的理解、人間社会の組織化、人間による自然の征服において、論理的首尾一貫性をあくまでも押し通そうとするものである。合理主義的態度一般のなかには、理性の尊重とともに、その限界も容認し、「世の中には理屈に合わないこともある」ことを受け容れようとする面もふくまれている。しかし「近代合理主義」は、そのような理性の限界を容認しない。もし「理論に合わない」現実が存在するとすれば、それはより高次の理論によって説明されなければならない。人間社会の「不合理」や、自然の人間に対する「不条理」は正されねばならないというのが、近代合理主義の姿勢であり、そういう意味で、それは戦闘的合理主義であるということができる。⑥ このような態度は、必ずしもつねに真に「合理的」な結果を生むとは限らない。理論に合わない現実は、「まちがったもの」として無視され、「あり得ないこと」として、その存在が否定されるということになりがちである。また人間や自然に対する行動を、早まって過度に「合理化」することは、予期しない失敗と、損害とをもたらす危険性も少なくない。 ⑦ しかしながら、このような近代合理主義の徹底性が、普遍的な真理追究への情熱、そうしてその具体的な表現としていつでもどこでも通用できるものとしての形式主義的な法則確立への努力、そうしてその応用として、人間社会と、経済および技術の、形式的ルールによる組織化を生み出したのである。それが西欧の世界支配をもたらした強大な力を作り出したことはいうまでもない。 (竹内啓『近代合理主義の光と影』) 問一 傍線部①の部分について。ここで言われている「無知と蒙昧」の説明として最も適当なもの一つを、 左記各項の中から選び、番号で答えよ。 1 自己犠牲の精神にとらわれていること 2 迷信や偏狭な信仰にとらわれていること 3 経験知を無視すること 4 伝統を重んずる民族主義に支配されていること 5 世俗的なものにとらわれていること 問二 傍線部②の部分について。ここで言われている「近代合理主義」の説明として最も適当なもの一つを、 左記各項の中から選び、番号で答えよ。 1 論理と計画を重視すること 2 直観主義・神秘主義・呪術主義と否定すること 3 社会のルール化により規律を一元化すること 4 不合理・不条理なものを認めないこと 5 理性と悟性を尊重すること 問三 近代合理主義の帰結として成立し、思想や文化に至るまで西欧の世界支配を可能にした制度や条件とは、 具体的に何か。それを説明した一文を本文中から探し出し、その初めの五字と終りの五字とを記せ。ただし、 句読点は含まない 資料★ 「読む→解く→分かる」のリズム ①「読む」 ― アバウトな内容理解 ※あとで必要に応じて参照できる程度に ・強弱を意識 ・「読み飛ばす」はNG、「読み流す」はOK ↓ ②「解く」 ― 傍線部・空欄周辺の徹底精査 ↓ ③「分かる」 資料★ 近代論の基本① ~デカルトに始まる思想の変化~ →デカルトの思想を起点にどうして科学が発展していったのか、流れで押さえよう! ①デカルト(近代科学の父)「われ思うゆえにわれあり」 ↓ 物(身体)=理性を持たないもの 心=理性を持つ唯一の存在(人間のみ) ↓ 「物心二元論」=近代の出発点 →世界を物と心に分けて、心の優位性を唱えた →物を対象化、計量化するようになり… ↓ ↓ ②近代合理主義=理性を至上の価値とする立場 ④時間・空間の均質化 ↓ =時間や空間が、客観的に測定可能なものとなったこと 人間に価値を置く 人間が優位に立ち、自然を支配 (近代以前は、人間も自然の一部だった=自然と対等だった) ↓ ③機械論=物事を機械のように細かく分けていけば、どんなものも理解できるという考え方 (例)臓器移植、動物実験(解剖など) →医学の発展 →アニミズム的宗教観の否定にもつながる(アニミズム=精霊信仰=さまざまなものに魂を見出す思想) ↓ 科学の発展 資料★ 近代論の基本② ~社会の変化~ ①ナショナリズム=一つの民族が一つの国家を作るべきだという考え (背景)三十年戦争→他国と戦争して領土を広げるために、国民としてのまとまった意識が必要 ②民主主義=人民が主権をもち、その主権を自ら用いようとする政治的な考え方(資料16) →個人個人が自由に意見を主張→全員の意見の一致は不可能→多数決の原理を採用 (背景)市民革命→国民が国王に反抗→国民の意見が政治に反映されるようになる ③資本主義=資本をもとにして利潤を得る経済のシステム(資料6) (背景)産業革命→工業化してモノの大量生産が可能に →しかし全自動化したわけではないので、労働者が必要→労働者を雇うためには賃金が必要 →賃金を払うために、たくさんモノを売って稼ぐことが必要→他の資本家と競争する ↓②+③ ④近代市民社会 →自由で平等な市民によって成り立っている社会 (背景)・民主主義と資本主義の発展 啓蒙主義による合理化・世俗化(=宗教からの解放) ※啓蒙主義=伝統の打破を目指す運動 ※世俗化の背景:近代合理主義→科学の発展→非科学的なものを排除する→宗教の地位が下がる 三 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 〈近代化〉はヨーロッパの主導によって進められたというよりも、しばしば植民地支配を免れたり、隷属的地位から脱したりする方途として、広く非ヨーロッパ地域に現れた現象だと言えるだろうが、そのヨーロッパからの自立の方途が、実は世界のヨーロッパ化を最終的に決定づけることになった。というのも〈近代化〉というかたちでの諸地域の変貌は、ヨーロッパ的な世界システムへの統合をめざすものであり、それこそが語のまったき意味でのヨーロッパ化に他ならなかったからだ。そしてこの世界的な〈近代化〉の傾向を生み出すことによって、ヨーロッパの世界化は、世界のヨーロッパ化として完成することになった。その結果われわれの生きている世界は、ヨーロッパによって鋳造されたとは言わないまでも、①ヨーロッパによって触発され、ヨーロッパが生み出した組織条件に適応すべく編成された世界になったのである。だから世界の〈現在〉を考えるということは、〈ヨーロッパ〉という名の下に展開された〈世界史〉の運動を考えることでもある。 ② それはまったく自明のことのようにも思われるし、また同時にヨーロッパを絶対化した見方のようにも思われる。ただ、自明性は往々にしてありうべき問いを封殺し、思考をあらかじめ方向づけてしまう。だから②何かを考えるときにはまず、当り前のこととして受容され問われることのない自明なものを点検してみなければならない。ただ、それはある事象の自明性を覆すためではなく、自明なものが自明である所以を問い質し、そこに封殺されている別の思考の可能性を探り出すためである。 ③ またこの場合、過不足なく事態を検討するためには、一度は〈ヨーロッパ〉を絶対化してみる必要もある。というのも、〈ヨーロッパ〉だけが歴史上唯一の文明的主体として、〈絶対〉とそして〈普遍〉を演じてきたからだ。そのことはたとえば、世界のあらゆる地域を見渡して、ヨーロッパだけがみずからを命名したということを想起してみればよい。ヨーロッパのある個人の「勲」を記念してつけた「新大陸」アメリカは言うに及ばず、アジア、アフリカ、オセアニアといった名はすべて、そう呼ばれる地域にもともとあったものではなく、ヨーロッパによって命名され、命名されることによってこれらの地域は、ヨーロッパ的な世界意識のなかで「存在」へと昇格したのである。だとしたらたとえば「アジアの自己主張」(といったものがあるとして)とは、いったいどういうことになるのだろう。アジアはヨーロッパの視野が広まるにつれ、しだいに東方に向けて奥行きをもつようになり、ついに太平洋岸まで達した。それはヨーロッパにとってのアジアなのである。では、自分で選んだものでもない名のもとに自己を定めるアジアの「自己主張」とは何なのだろう。③自己の主張がすでに他者の規定の補強でしかないというこのジレンマは、あらゆる「東洋主義」や「アジア主義」を自縄自縛に陥れたものであり、このジレンマを免れているのは、他の誰にも名づけられることなく、みずからの名乗りによってパフォーマティヴに自己を設定したヨーロッパだけなのである。たしかにアジアやアフリカは「非ヨーロッパ」を標榜して、それに対抗する姿勢をとることもできるが、それでもその対抗や自立の仕種が、ヨーロッパによってひとつになった世界の中での振舞いでしかないということは否定できない。 ④ 一九四八年に上梓されたレオナルド・セダール・サンゴール編『ネグロ・マダガスカル新詩選』に寄せたシャルル=アンドレ・ジュリアンの序文に次のような一節を読むことができる。(……)植民地支配が終り、アフリカは解放され、歴史上のいかなる革命にも見られなかったほどの変化が起こった。熱狂と失意、希望と怨恨を刻印された新しい自由の経験は、当然ながら詩にその表現を見いだすことになる。 この一節がいま読む者をはっとさせるのは、それがすでに四半世紀来忘れ去られたブラック・アフリカの新しい詩の勃興の意味を鮮明に思い出させるからではなく、まさしくその意味を要約した「【 ④ 】」という言葉のためである。 ⑤ たしかに「解放」された旧植民地の人びとにとって「自由」は新しかった。しかもまったく「新し」かったことだろう。というのも、⑤彼らにはかつて一度も「自由」の経験などなかったのだから。その地に〈ヨーロッパ〉が訪れ、この「文明の中心」に鎖で繋がれる以前には、彼らには彼らなりの自在さがあったとしても、「自由」など必要なかったことだろう。彼らはいわば自生していたのであり、「独立」を主張する必要も「解放」される必要もなかったはずだ。植民地支配によってこれらの地域は、輝かしい発展を謳歌する西洋近代の黒いエクス・マキーナとして、その「進歩と繁栄」に繋縛され搾取され、まさにそのために「独立」や「解放」を必要とするようになったのだ。とはいえ彼らは独立によってけっして「解放」されたわけではない。なぜなら「独立」とは、すでに不可逆的に進行している西洋的歴史のなかで一主体としての承認を求めることであり、彼らが「解放」される空間は、すでに西洋化した世界空間なのだから。そこに「主体」として参入するために、彼らは結局あらためて「西洋システム」という学校に入り、それこそ未知の「自由」を学ばなければならなかったのだ。そのことが現在の世界のいわば既決性というものを端的に示している。 ⑥ ヨーロッパは世界化し、世界はヨーロッパ化した。というより、この世界はヨーロッパによって〈世界〉として形成された。そしてヨーロッパは自己の⑥普遍性の主張を、形成された〈世界〉の内に実現することになった。ただ、この普遍性の実現が全体としての〈世界〉の形成として成就したのは、この世界が地球という球体の表面にあるという単純な物理的条件に規定されている、ということには注意しておいてよい。でなければ、普遍性の主張が全体化として実現されるということはありえない。どんなにヨーロッパが膨張しても、それが無限の平面上のことだったら、その普遍性の主張も有限な領域に甘んじるひとつの普遍性にすぎず、膨張の前線の向こうにはつねに未知で手つかずの圏域が広がっているからだ。その外部が、拡張するもの自身をつねに個別性へと送り返す。ただ地球が丸いということが、前線の解消と全体化を可能にするのだ。ヨーロッパはそのようにして全体となった。 ⑦ だがすべてがヨーロッパ化されてしまったとしたら? ヨーロッパが拡張を続けている間は、つまり同化する外部をもつ間は、ヨーロッパは有限な、したがって固有性をもつものでありえた。ただその境界がなくなり、すべてがヨーロッパ化されて全体がヨーロッパ的になってしまうと、ヨーロッパはもはやその固有性を主張しえなくなる。あらゆる差異を越える共通項、全体の全体性たる所以をなすものは、この全体の内でいかなる固有性ももたない所与の条件である。いまヨーロッパはそのような世界の全体性の自明の条件になってしまった。だからこそ、世界のどこにいても「世紀末」を語って何の違和感もないのである。「西暦」は依然としてこの世界の世界性形成の刻印だとしても、もはや個別ヨーロッパへの帰属という意味を失ってしまっている。そして実はそれが現在の状況の象徴的な反映なのである。だから⑦いま「歴史の終り」が語られるとしても何の不思議もない。たしかに歴史は終ったとも言える。だがその「終った歴史」とは、歴史一般ではなく西洋を主体とする世界化の歴史なのである。 (西山修『世界史の臨界』による。ただし問題作成の上から本文の一部を改めた。) 問一 傍線部①の内容と同内容の表現を、本文中から二〇字以内で抜き出せ。 問二 傍線部②について、これを行うことがなぜ必要なのか、本文中から十五字で抜き出せ。 問三 傍線部③について、「自己」と「他者」はそれぞれ具体的に何を指すか、答えよ。 問四 空欄④に入る言葉を、引用文の中から十字前後で抜き出して答えよ。 問五 傍線部⑤について、その理由が最も的確に示されている一文を抜き出し、最初の五字を抜き出せ。 問六 傍線部⑥と反対の意味で用いられている言葉を、同じ段落の中から抜き出して答えよ。 問七 傍線部⑦について、その理由を述べた次の文の空欄に入る語を、それぞれ同じ段落の中から抜き出せ。 世界全体がヨーロッパ化されたことで、( ア )を失い、( イ )を獲得したから。 第7講 論理展開① 類比の把握 はじめに 今回からいよいよ、現代文学習の基本と言ってもいい「論理展開」の学習に入ります。もちろん、日本語の読み書きのベースという観点から言えば、これまで学習してきた語彙や文法、もっと細かいことを言えば漢字の力なども現代文の得点を安定させるためには必要な要素ですし、今後も続けていただきたい学習の一つになることは間違いありません。知識があるからこそ読解がスムーズに行えるのですから。 しかし、現代文の学習においてもう一つ重要な観点として、「論理」の学習は外せません。「論理」とは、一言で言ってしまえば「言葉と言葉の関係」です。つまり、出来上がった文章を読んで、我々は、文と文の関係、段落と段落の関係を考え、筆者がどのような筋道を立てて自分のメッセージを伝えようとしているのかを読み取っていく必要があるのです。近年、国公立大学の入試問題などにも、露骨に論理展開・論理構造の把握を求める問題が増えてきました。また、昨今、指導要領の改訂により「論理国語」という科目が新たに全国で実施されるということが話題になっています。 いずれにしても、現代文の問題を解くときに、文章の字面をただ追って「ウォーリーを探せ」的に解答を導くような解き方をしている人は、本講からそのやり方を改善していく必要があるでしょう。文章を書く人がどのような思考作業をして、それをどのように文章のなかで表現・配置しているのか、という根本的なことをしっかり学習していきましょう。 皆さんは、日常的に、文章を書く機会はありますか? それも、LINEなどでの友達同士での会話といった類のものではなく、論文やレポートなどといった論理的文章の類を書く機会はありますか。そのような機会をもし皆さんが失っているとすれば、一旦ここで「文章を書く」というのがどのような作業なのか、根本から考え直していく必要があります。ここからしばらくはそのような授業にしていきたいと考えています。実際の入試問題を題材にしているため、予習がかなり大変だとは思いますが、事前に文章と向き合って頭を使うからこそ、授業内で「よりよい頭の使い方」を学ぶことができます。やみくもに受講を先に進めても、効果は期待できません。授業は矯正の場です。しつこいでしょうが、皆さんの事前準備が得点力アップの原動力にもなりますから、徹底的な予習をお願いします。 資料★ 文章=思考の伝達である! ①人間(書き手=筆者)の思考は、{類比・対比・因果}の三つを軸に展開される。 →Aという事柄を主張したいとき、Aと類似した性格をもつものや、Aと反対の性格をもつものを材料に しながら思考を進めていく。また、主張Aに対する論拠を用意し、思考を進めていく。 ②こうした思考を実際に読み手に伝える際には、{例示・引用・比喩}の三つをオマケとして追加する。 ※「例示」には、筆者の体験なども含む。 →Aという事柄を主張したいとき、Aの具体例を示したり、Aと同じことを言っている他の人の文章を 借りてきたり、Aを別の言い方でたとえたりする。そうすると読者に伝わるものになる。 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 余りに単純で身も蓋もない話ですが、過去は知覚的に見ることも、聞くことも、触ることもできず、ただ想起することができるだけです。その体験的過去における「想起」に当たるものが、歴史的過去においては「物語り行為」であるのが僕の主張にほかなりません。つまり、過去は知覚できないがゆえに、その「実在」を確証するためには、想起や物語り行為をもとにした「探究」の手続き、すなわち発掘や史料批判といった作業が不可欠なのです。 ② そこで、過去と同様に知覚できないにも拘(かかわ)らず、われわれがその「実在」を信じて疑わないものを取り上げましょう。それはミクロ物理学の対象、すなわち素粒子です。電子や陽子や中性子を見たり、触ったりすることは、どんな優秀な物理学者にもできません。素粒子には質量やエネルギーやスピンはありますが、色も形も味も匂いもないからです。われわれが見ることができるのは、霧箱や泡箱によって捉えられた素粒子の飛跡にすぎません。それらは荷電粒子が通過してできた水滴や泡、すなわちミクロな粒子の運動のマクロな「痕跡」です。アその痕跡が素粒子の「実在」を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません。その意味では、素粒子の「実在」の意味は直接的な観察によってではなく、間接的証拠を支えている物理学理論によって与えられていると言うことができます。逆に、物理学理論の支えと実験的証拠の裏づけなしに物理学者が「雷子」なる新粒子の存在を主張したとしても、それが実在するとは誰も考えませんし、だいいち根拠が明示されなければ検証や反証のしようがありません。ですから、素粒子が「実在」することは背景となる物理学理論のネットワークと不即不離なのであり、それらから独立に存在主張を行うことは意味をなしません。 ③ 科学哲学では、このように直接的に観察できない対象のことを「理論的存在」ないしは「理論的構成体」と呼んでいます。むろん理論的存在と言っても イ「理論的虚構」という意味はまったく含まれていないことに注意してください。それは知覚的に観察できないというだけで、れっきとした「存在」であり、少なくとも現在のところ素粒子のような理論的存在の実在性を疑う人はおりません。しかし、その「実在」を確かめるためには、サイクロトロンを始めとする巨大な実験装置と一連の理論的手続きが要求されます。ですから、見聞臭触によって知覚的な観察可能なものだけが「実在」するという狭隘(きょうあい)な実証主義は捨て去らねばなりませんが、他方でその「実在」の意味は理論的「探究」の手続きと表裏一体のものであることにも留意せねばなりません。 ④ 以上の話から、物理学に見られるような理論的「探究」の手続きが、「物理的事実」のみならず、「歴史的事実」を確定するためにも不可欠であることにお気づきになったと思います。そもそも「歴史(histoy)」の原義が「探究」であったことを思い出してください。歴史的事実は過去のものであり、もはや知覚的に見たり聞いたりすることはできませんので、その「実在」を主張するためには、直接間接の証拠が必要とされます。また、歴史学においては史料批判や年代測定など一連の理論的手続きが要求されることもご存じのとおりです。その意味で、歴史的事実を一連の「理論的存在」として特徴づけることは、抵抗感はあるでしょうが、それほど乱暴な議論ではありません。 ⑤ 実際ポパーは、『歴史主義の貧困』の中で「社会科学の大部分の対象は、すべてではないにせよ、抽象的対象であり、それらは理論的構成体なのである(ある人々には奇妙に聞こえようが、「戦争」や「軍隊」ですら抽象的概念である。具体的なものは、殺される多くの人々であり、あるいは制服を着た男女等々である)」と述べています。同じことは、当然ながら歴史学にも当てはまります。歴史記述の対象は「もの」ではなく「こと」、すなわち個々の「事物」ではなく、関係の糸で結ばれた「事件」や「出来事」だからです。「戦争」や「軍隊」と同様に、ウ「フランス革命」や「明治維新」が抽象的概念であり、それらが「知覚」ではなく、「思考」の対象であることは、さほど抵抗なく納得していただけるのではないかと思います。 ⑥ 「理論的存在」と言っても、ミクロ物理学と歴史学とでは分野が少々かけ離れすぎておりますので、もっと身近なところ、歴史学の隣接分野である地理学から例をとりましょう。われわれは富士山や地中海をもちろん目で見ることができますが、同じ地球上に存在するものでも、「赤道」や「日付変更線」を見ることはできません。確かに地図の上には赤い線が引いてありますが、太平洋を航行する船の上からも赤道を知覚的に捉えることは不可能です。しかし、船や飛行機で赤道や日付変更線を「通過」することは可能ですから、その意味ではそれらは確かに地球上に「実在」しています。その「通過」を、われわれは目ではなく六分儀などの「計器」によって確認します。計器による計測を支えているのは、地理学や天文学の「理論」にほかなりません。ですから赤道や日付変更線は、直接に知覚することはできませんが、地理学の理論によってその「実在」を保証された「理論的存在」と言うことができます。この「理論」を「物語り」と呼び換えるならば、われわれは歴史的出来事の存在論へと一歩足を踏み入れることになります。 ⑦ 具体的な例を挙げましょう。仙台から平泉へ向かう国道4号線の近くに「衣川の古戦場」があります。ご承知のように、前9年の役や後3年の役の戦場となった場所です。現在目に見えるのは草や樹木の生い茂った何もないただの野原にすぎません。しかし、この場所で行われた安倍貞任と源義家との戦いがかつて「実在」したことをわれわれは疑いません。その確信は、『陸奥話記』や『古今著聞集』などの文書史料の記述や『前9年合戦絵巻』などの絵画資料、あるいは武具や人骨の発掘物に関する調査など、すなわち「物語り」のネットワークによって支えられています。このネットワークから独立に「前9年の役」を同定することはできません。それは物語りを超越した理想的年代記作者、すなわち「神の視点」を要請することにほかならないからです。だいいち「前9年の役」という呼称そのものが、すでに一定の「物語り」のコンテクストを前提としています。つまり「前9年の役」という歴史的出来事はいわば「物語り負荷的」な存在なのであり、その存在性格は認識論的に見れば、素粒子や赤道などの「理論的存在」と異なるところはありません。言い換えれば、エ歴史的出来事の存在は「理論内在的」あるいは「物語り内在的」なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを「物語り的存在」と呼ぶこともできます。 (2018年 東京大学第1問 野家啓一『歴史を哲学する―七日間の集中講義』) 設問 (一)「その痕跡が素粒子の『実在』を示す証拠であることを保証しているのは、量子力学を基盤とする現代の物理学理論にほかなりません」(傍線部ア)とは、どういうことか、説明せよ。(八〇字以内) (二)「『理論的虚構』という意味はまったく含まれていない」(傍線部イ)とはどういうことか、説明せよ。(八〇字以内) (三)「『フランス革命』や『明治維新』が抽象的概念であり、それらが『知覚』ではなく、『思考』の対象であること」(傍線部ウ)とはどういうことか、説明せよ。(八〇字以内) (四)「歴史的出来事の存在は『理論内在的』あるいは『物語り内在的』なのであり、フィクションといった誤解をあらかじめ防止しておくならば、それを『物語り的存在』と呼ぶこともできます」(傍線部エ)とあるが、「歴史的出来事の存在」はなぜ「物語り的存在」といえるのか、本文全体の論旨を踏まえた上で、一〇〇字以上一二〇字以内で説明せよ。 資料★ 記述問題の解答手順 ①解答根拠になりうる箇所をすべて拾い、 ②その中からベストな表現を選び、 ③指定字数の中に正しい日本語・正しい論理関係のもと記述する 資料★ 記述問題のチェックポイント ①設問要求/条件を的確に捉える (記述問題に限らず重要) →「指定語句」「字数制限」「文末表現」「句読点」などは特に注意 ②解答に詰め込む要素は「多い」ほうがいい →「誰が採点しても高得点がもらえるような答案」のために ③基本的に本文の表現はそのまま使う →自分の言葉を用いていいのは、(a)字数短縮を図りたいとき、(b)根拠が具体例・比喩のとき、(c)本文中の根拠のみでは不十分のとき。 ④具体例・比喩は原則カットする ⑤鍵括弧付きの言葉には注意を払う →特別な意味が込められている場合、一般化が必要 ⑥+αとして、主語・条件・対比・理由 →ただし、メインのポイントをしっかり押さえたうえでの話 ⑦答案の中で同内容の表現を二度使わない →反復表現に関しては、ベストな表現を選択 ⑧本文の論理関係/ニュアンスを保存するように努める →因果関係、状態・変化、仮定・確定など (例)2005年東大第1問「技術的であることによって人間の行為は表現的になる」 第8講 論理展開② 対比の把握 はじめに 今回は、対比構造を扱います。「類比・対比・因果」の中では最頻出項目と言ってよいでしょう。「対比で書かれていない文章はない」とまで断言される予備校講師もいるくらいです。その真偽はさておき、頻出なのは間違いないです。そして、対比構造に気付くことで思考の短縮が図られ、簡単に得点できる問題というのが入試では山ほど出るのです。しかし、初めのうちはなかなか対比に気付くことができないものです。そこで、授業を受ける際には、「どのようにして対比に気付くのか?」を常に意識しながら話を聞くようにしてください。対比を形成する接続語的な表現から気付くこともあれば、「主観←→客観」といった概念語から気付くこともあれば、「日本←→ヨーロッパ」といった概念的枠組み(=スキーマ)から気付くこともあります。発見方法に慣れてしまえば、現代文の文章に対する見え方が変わり、得点力がぐんと伸びると思いますよ。ぜひ、力を入れて取り組んでください。 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数年前、森林関係の研究所に勤務している研究員のところに、ある村の村長が訪ねてきた。その村の森には、それほど多くはないけれど、いまでは希少価値になった天然のヒノキが大きく育っているのだという。そのヒノキを一番高く売るには、どうするのがよいのかが村長の問いだった。研究員はいろいろ調べたうえで、後日その方法を教えた。それは玄関の表札にして売るのが有利だというものだった。 ② ところがそう話したら、村長はきわめて不愉快そうな顔をした。樹齢二百年を超えた大木が、主になった後も堂々と建物を支えつづけ、生きつづける姿を思い描いていた村長には、それが細切れにされることなど、容認できることではなかったのである。商品価値を高めることが、木を侮辱することであってはならないと思った。 「それがあのころ一番高く売る方法だったのに」 研究員は私にその話をしてから、「しかし村長の気持ちもわかるし」と言って楽しそうに笑った。自分の提案が拒否されたことは、彼にとっても愉快な出来事だったのである。 ③ 木が本来もっている価値を生かすことと、商品として木を高く売ることは、必ずしも一致しない。いまでは天然のスギの銘木は、紙のような薄い板にされ合板に張りつけられて、天井板などになることが多い。それが天然スギを一番高く売る方法でもあるし、そのことによって天然スギのもっている木目を比較的安い価格で、だれもが楽しめるようになったと評価する意見もある。しかし、それでもなお私は、山奥の路上で合板にされるために乾かされている天然スギを見かけると私は村長と同じような気持ちをいだくのである。 ④ 今日では山の木が建築物に変わるまでの間には、次元の異なる二つの過程が重なりあっているのであろう。それは使用価値と商品価値の違いによって生ずるズレ、といってもよいのだけれど、木自体がもっている価値を生かすか、商品としての木の価値を優先するかをめぐって、木にたずさわる者たちもまた動揺してきた。そしてそのことは、ときに力強く木の育った美しい森と経営効率を優先させた森の違いとなってあらわれ、製材や建築の過程で職人的な仕事と商品をつくるだけの労働の違いとなってくる。 ⑤ たとえば製材工場を訪ねても、スギやヒノキなどの国産材をひく工場と輸入材をひく工場とでは、雰囲気がずいぶん違う。国産材は、どこにノコギリの刃をあてるかで木目の出方も変わり、木の価値も商品価値も変わってくるから、木目の出具合を読む職人の経験やカン、コツが工場を支えている。ところが輸入材は木目も一定のものが多く、しかも大壁工法などの柱のない家の部材になることが多いから、部品をつくる自動化工場のようである。最近では労働力不足に対応して、コンピュータ製材が関心を高めているけれど、それも職人の腕を必要としなくなった輸入材専門工場での話にすぎない。国産材の工場はいまも職人の世界である。 ⑥ 山の木を単なる商品にしてしまわないためには、職人的な腕が生きていなければいけない。確かに山の木は、林業家から製材業者へ、工務店から消費者へと、商品として流れていく。ところがこの流れのなかに、美しく、大きく森を育てていこうとする村人の腕や、製材職人の腕、木の特性を生かしていこうとする大工の腕などが健在である間は、木と人間は一体化して、木の文化をもつくりつづけることができる。 ⑦ 木の文化は、天然のヒノキが細切れの板にされるのをかわいそうだと感じる、あの村長の気持ちに支えられてきた。そしてその気持ちを仕事のなかで実現させる職人たちの腕とともにあったのである。 (内山節「森にかよう道」より) (注)大壁工法=断熱材等でできている壁板を、柱をおおうように張っていく建築法。 問 傍線部「単なる商品」とはどのような商品を指していますか。 次から適切なものを二つ選び、記号で答えなさい。 ア 利益を多く得ることを優先して作られた商品。 イ 木自体がもつ価値を大切にして作られた商品。 ウ 美しい森で力強く育った木を生かして作られた商品。 エ 部品をつくるような自動化された工場で作られた商品。 オ 職人の経験やカンに頼っている工場で作られた商品。 問 本文の筆者が述べようとしていることとして最も適切なものを次から選び、記号で答えなさい。 ア 山の木が建築物に変わるまでの過程で、商品としての木の価値を高めることが大切である。 イ 労働力不足を補うためにも、木が商品に変わるまでの過程をより効率的にする必要がある。 ウ 木が商品に変わる過程に、木自体の価値を生かそうとする願いや技術があって木の文化は守られる。 工 木の価値を生かすことと商品として木を高く売ることとは、もともと両立させられないことである。 二 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① カメラのレンズは人間のによって覗かれ、自由に操作されるかぎり、両者は同等に機能し、人間の眼のかわりをカメラのレンズが果たしていると思われがちだが、事実はきびしく相反する関係にあっただろう。人間の眼の機能を、見るという言葉で表現するのであれば、カメラのレンズのメカニックな機能は、見ることの死であると言わざるをえないほど、両者のあいだには測り知れない隔たり、深い断絶があったのである。 ② われわれの眼がものを見ているとき、すでにそこにある現実、さまざまな事物や出来事を個別的に見ているのではなく、それらが連続する総体としての世界を見ているのである。従って人間の視線は一瞬たりとも運動を停止し、非連続の状態にとどまることはできない。一点に眼をこらし、見つめているようではあっても、それは次の瞬間に新たなる運動を起こすための一時的な、かりそめの休止符にすぎない。 ③ たしかに一枚の絵の前にたたずみ、じっと見入っていることがある。だがそのとき、われわれの眼は果たしてなにを見ているというのだろうか。おそらくなにかを見ているという意識はなく、絵の空間の拡がり、(注1)タブローの表面にただ視線を滑らせ、行きつもどりつしながら反復を繰り返しているのである。それが絵に見入っているときの言いようのない浮遊感であり、気づかぬうちに作品に魅せられていることの神秘さであるのだが、絵に心を奪われていることが意識された瞬間、そうした忘我的な陶酔はかき消え、単なる事物としてタブローがそこにあるだけである。 ④ このように人間の生きたしはこの世界の表面を軽やかに滑り、たえず運動をつづけており、なにかに見入ることによる視線の停止、非連続はあるかなきかの一瞬にすぎず、それが意識された瞬間には視線はすでに新たな運動を始めているのである。言葉をかえれば、われわれがなにかを見ていると意識するのは、わずかに限られた時間でしかなく、なにも意識せずにものを見ている、そうした無用、無償の眼差し、おびただしい剰余の眼の動きに支えられて、われわれはこの現実とのたえざる連続を保ちながらこの世界のなかに生きつつあるのである。 ⑤ それとはまさしく相反して、Aカメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ることは、こうした人間の眼の無用な動きを否定し、おびただしい剰余の眼がひとつの視点に注がれ、集中するように抑圧することであった。 ⑥ 限りなく拡がる世界の空間から特定されたひとつの被写体を選び、画面に切り取り、それ以外の空間は存在しないかのように排除し、無視することを求める映画の映像は、人間の生きた眼が無意識のうちに呼吸するリズム、その無用な遊びを禁じるようなものであっただろう。しかも映画はそれに見入っているわれわれの時間といったものにまで介入し、きびしく制限を加えることによって、見ることの死を宣言するに等しかったのである。 ⑦ 同じカメラによる表現でありながら、一枚の写真と映画とを対比するならば、動く映像としての映画のありよう、その暴虐ぶりがより鮮明になるに違いない。現実にそこにあるものを映し出すかぎり、映画の映像と写真はともに複製の表現であり、現実をイメージによって捉え、抽象化する絵画とは異なると思われがちだが、それを見るという行為の側に立つならば、B写真と絵画はまったく同質のものであっただろう。一枚の写真もまた絵のタブローと同じように見ているのであり、おびただしい剰余の眼差しに支えられて、いまわれわれはまぎれもなくその写真、その絵を見ていることに気づくのである。 ⑧ だが映画はそうした眼差しの無用さ、無償性を許そうとはせず、あくまで特定の視点を強要し、さらにわれわれがそれに見入っている時間に至るまできびしく制限しようとする、独占的なメディアと言うべきではなかっただろうか。 (2005年センター試験本試 国語Ⅰ・Ⅱ 第1問 吉田喜重『小津安二郎の反映画』) (注1) タブロー――カンバスや板に描かれた絵画作品。 問1 傍線部A「カメラのレンズをとおしてこの現実、この世界を見ること」とあるが、「カメラのレンズ」の機能の説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。 ① カメラのレンズは、現実のさまざまな事物や出来事を、個別的にではなく連続的に写し取る。 ② カメラのレンズは、現実のなかから被写体を選び出し、そのありのままの姿を正確に写し取る。 ③ カメラのレンズは、無限の現実から特定の対象を切り取ることにより、現実の世界を否定する。 ④ カメラのレンズは、連続する世界のなかから特定の部分を写し取り、それ以外の部分を排除する。 ⑤ カメラのレンズは、人間の手で自由に操作されるかぎりにおいて、人間の眼と同等の能力を持つ。 問2 傍線部B「写真と絵画はまったく同質のものであっただろう」とあるが、それはどういうことか。その説明として最も適当なものを、次の①~⑤のうちから一つ選べ。 ① 動く映像としての映画のあり方と対比すれば明らかであるが、写真と絵画は現実に流れている時間を静止させて複製しているという点で、見る者からすれば同じ性質であるということ。 ② 写真に写された世界はカメラによって切り取られ限定されているが、絵画も画家の眼により世界の一部が切り取られて画面に再現されている点で、同様に限定的なものであるということ。 ③ 絵画を見るときの私たちの眼は一点を見つめているようであっても常に動きつづけているが、写真を見るときの私たちの視線もその上を浮遊し、自由に運動しつづけるものだということ。 ④ レンズでとらえた写真と画家の肉眼がとらえた絵画とは異質な点もあるが、どちらも奥行きのない平面における表現であり、私たちの視線はそれらの表面を漂うしかないということ。 ⑤ 画家によって描かれる絵画と機械によって撮影される写真とは異質なものと思われがちだが、現実をなんらかの媒介物に転写したものであるという点で、両者は同様であるということ。 資料★ 選択肢チェックにおけるポイント 分解して捉える 根拠を含むものを「探す」 消去法は万能ではない ※消去法=明らかな誤答を消去し、残ったものをとりあえず選ぶこと 第9講 論理展開③ 因果の把握 はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 因果関係 次の文章の内容を、条件に従って2通りに要約せよ。 ①(80字以内) ②(40字以内) 2012年明治大学政治経済学部 日本語の定型詩が対句を用いるのはきわめて稀である。詩論、すなわち平安時代以後、殊にその末期に俊成・定家父子を中心として行われた「歌論」が対句に触れることもない。その理由は比較的簡単で、要するに日本では『古今集』以来極端に短い詩型(いわゆる「和歌」)が圧倒的に普及したからである。音節の数では和歌(三一)は五言絶句(二〇)よりも多いが、語数では和歌の方が少なく、対句を容れることはほとんど物理的に不可能である。しかも後には連歌から「俳句」が独立して和歌(または短歌)に加わる。俳句はおそらく世界中でも最短の詩型の一つであろう。俳句はそれ自身が一句だから、対句は問題にならない。『万葉集』の時代には「長歌」もあったし、『梁塵秘抄』の時代には「今様」もあった。しかしそのどちらにも二行を一組として扱う対句の多用はみられない。『万葉集』の長歌の技法には、相称的な形容句を重ねて用いる修辞法が含まれるが、その場合にも相称的表現が作品全体の構造に決定的な役割を果たしたわけではない。今様は四行の歌詞である。その二行が中国風の対句を作る例は、現存する本文に関するかぎり、ほとんどない。要するに極端な短詩型の支配は、左右相称の言語的表現を排除したと思われる。 解答 ①日本では、極端に短い詩型が圧倒的に普及したことで、対句を容れるのはほぼ物理的に不可能であったため、定型詩において左右相称の対句が用いられるのはきわめて稀だった。(80字) ②日本では、極端な短詩型の支配により、定型詩で対句が用いられることはほぼなかった。(40字) ポイント 解答の独立性 → 範囲・条件が限定されている場合は、入れる 第10講 論理展開④ 抽象と具体の把握 はじめに 今 私大トレーニング第1講の関西学院大学の問題の書き抜き! 臨海のテキストの「降伏」の問題!(対比にも使える) 2002年センター国語Ⅰ評論問1。オーディオの文章。 東大2013年第4問の後半部。 資料★ 抽象・具体のリズム 抽象・具体の配置にはある程度決まりがある。 ①頭括型 ②尾括型 ③双括型=論理の貫通 ・「抽象→具体→抽象」というサンドウィッチ型。 ・具体部分に来る要素は、①例示(筆者の体験含む)、②引用、③比喩など。 抜き出し問題 →どういう意図?:反復表現がある程度遠い箇所にあると、設問にしたくなる。 論理の貫通がわかることで対応力があがる! ただし、誤答の排除が可能なようにつくる。 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 第11講 総合演習① ~高校入試の問題を用いて~ はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 「①国際的で個人主義的な資本主義」、すなわちグローバル資本主義は物的な生産をますます増加し、自由な経済活動の空間をさらに拡大し、人間の欲望をいっそう開放することが幸福につながる、という価値観によって成り立っている。 そしてその底には、物的に富裕になるもののみが幸福になれる、という価値観が潜んでいる。しかも、それはどのような国や地域にあっても共通の価値であり、それゆえ、グローバリズムこそが、世界中の人を幸福に導く原理である。これが、グローバル資本主義の正当化の理屈であろう。 西洋社会は、確かに、人間活動の社会性の遠心力に期待をたくし、外へ外へと拡散する方向をもっぱら強調したことは疑いない。ローマ帝国は外へ外へと膨張し、キリスト教は人類全体を救済するという普遍性を唱え、マルコ・ポーロは黄金を求めてひたすら東を目指し、マゼランやコロンブスは地球を一周しようと試み、19世紀の帝国主義者は世界の富をすべて手に入れようとし、戦後のアメリカは宇宙へまで触手を伸ばそうとした。 この延々と続く、しかもそれによって罠を世界史の中心においたこの無限の拡張意欲こそがこの21世紀にも依然として世界史を動かしている。西洋の文化の根底にある拡張と普遍性をもとめる強烈な意思がまた今日のグローバリズムを生み出してきた、ということもできるであろう。西洋社会は、基本的に、人間の活動の社会性の遠心力、もしくは外へ外へと拡散する方向へ圧倒的なエネルギーを投入したのである。そうして、たえず、自己の環境世界を変化させてきた。いまここにある世界を破壊してはまた新たに作り出す。ただし、その新しい世界は、以前のものよりも、より大きく、より遠くまで、より便利に。これが創造的破壊の原理であった。 西洋近代社会は、「より大きく、より遠くまで、より便利に」を組織的に可能とするものとしての科学と技術を経済体系に取り込み、科学と技術を利用した創造的破壊こそが「進歩」を可能とすると信じたのである。この「より大きく、より遠くまで、より便利に」によって近代資本主義は、たえず「世界」を作り変えてきた。この変化を「進歩」とみなし、そこにうまれる「進歩」を享受することこそが幸福の条件だったのである。 しかし、われわれは②人間であることの条件の中で生を営んでいる。それ以外の何ものでもない。そして、人は、ある歴史的に与えられた自然環境や世界や精神的な性向の中で生きるほかない。自然や世界や精神を多少は作り変えることはできるかもしれないが、それを全面的に創造的破壊にまかせることはできない。 人は、自己をとりまく環境的世界を抜け出し、未知の世界へと雄飛しようとすると同時に、その環境的世界の中で安寧をえ、快適性を感受しようとする。遠心力に対しては求心力、拡散する力に対しては凝縮する力が働くのだ。この両方共が必要なのである。そして、多数派はあくまで後者の世界にある。いくらグローバリゼーションの中で、世界中のモノが入手可能になっても、また、世界中の情報を手にすることができ、世界中の人と知り合うことができても、「ふつうの人」が1年間に買うものなどたかが知れている。テレビが壊れて買いかえたり、衣服が汚れて買いかえたりといったことはあっても、まったく新種の新手の製品を買うなどということは数年に1度ぐらいのことであろう。まして、必要なものとなれば、ほんのわずかな種類のものである。また、われわれが日常の生活の中で必要とする情報など、これもたかが知れている。われわれが一年で会い言葉を交わす人間の数もたかが知れている。本当の意味で大事な付き合いをする人間となると、もう両手で数えれば十分であろう。 これがわれわれの生きている世界である。この現実世界を超出した可能性の世界をわれわれは想像することはできるが、「ふつうの人の生は見もしない可能性よりも、いまここで手の届く範囲の幸福を求めるものである。そしてこの世界の中の生を特徴づける言葉は、「より大きく」ではなく「そこそこの大きさで」であり、「より遠くまで」ではなく「なるべく手の届く範囲で」であり、「より便利に」ではなく「そこそこ便利に」である。この世界を支配する価値は、「欲望」ではなく「必要」であり、「快楽」ではなく「快適」であり、「効率」ではなく「愉楽」であり、「最大化」ではなく「適切さ」である。 人間とは、「人間とは何なのか、私とは何なのか」と絶えず問う存在である。頭の中で問わないまでも、こころの中で問うている。とすれば常に出会い、常に傍らにあるモノや人や場所があってはじめて、われわれは自己の役割を知り、自分が何ものかの役に立つことを知り、自分が世界の一部であることを知るだろう。こうしてようやくそれなりの自己確証をえることができるだろう。 ヘーゲルが述べたように、人間が社会的な存在であるのは、人は他者から承認されることで初めて自分自身になるからである。「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」という*シューマッハーの言葉は、決して通俗的なヒューマニズムの表明ではなく、人間存在の基本的な条件を述べたものであった。だから、われわれは、一方では、市場経済の無限拡張であるグローバリズムや情報網の世界的な拡張を受け止めると同時に、他方では、③小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。「そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えることを学ばなければならない」というわけである。 ひとつの地域は、ただそこに住民票をおいたものが漫然と生活しているのではなく、その土地への愛着や愛郷心によってつながっているはずである。相互に相手がどのような人間であるかを理解でき、地域ぐるみで子供に対して一定の価値観や道徳基準を教育するものである。「共感」があり、その「共感」のうちに自然と道徳心が生じるのが、地域共同体というものである。 組織や集団においてもまた、ただ仕事の分担によってのみ人々はつながっているのではない。仕事によってつながるためにも、ある程度は他人の性格や人柄を知らなければならないだろう。さらにいえばそれだけではなく、ある他人の別の他人に対する関係も知っておかなければならない。一人一人のお互いに対する関わり方もわかっている必要がある。そうして初めて組織や集団はうまくゆく。これは、巨大組織では無理であって、それが可能なある適正な規模というものがあるのだ。こうした相互に信頼できる仲間があって初めて、人は「組織人」「集団人」として何とかやってゆけるであろう。 逆にいえば、この種の、相互に信頼でき、相互に相手の性格や事情を了解できる組織や集団を作れない社会では、人々は、日常の中で神経をすり減らし、人間関係はとげとげしく、創造性に欠け、仕事への責任感を持ちえないであろう。組織と仕事は、人々の道徳性の母体にもなるのである。多くのものが、道徳性や規律を身に付けるのは、個人主義によってではなく、適切な組織においてである。 シューマッハーはこういうことを書いている。ジューマッハーとは「靴屋」を意味する名前であるが、よい靴屋であるためには靴を作る技術的な知識を持っているだけではダメだ。足についての知識が必要である。それは、ただサイズが大きいとか小さいだけでもない。足の動かし方から、足の形、筋肉の柔らかさ、したがって、使用する人の性別や年齢や時には職業までがかかわってくる。また、硬い舗道を主として歩くか農道で使用するかでも違ってくるだろう。乾燥した土地か雨が多い地域かでも違うだろう。 とすれば、靴は、それが使われる地方によっても、材質や形状が異なる。本当のことをいえば、靴屋とは、人間や風土についてのこうした総合的知識の持ち主なのである。少し大げさにいえば、靴とは、われわれが、われわれの身体を大地や道路やらにつなぎ留め、精神的な安らぎや逆にまた不安感をもたらす、つまり自然や世界や精神に働きかける道具なのである。 もちろん、今日、こんなオーダーメイドの靴屋はめったにいない。ひとつの標準形に従って大量生産され、様々な形とサイズの多様性さえも情報的に管理される。場合によれば、海外の低賃金工場で生産される。へたをすれば、世界中に同じところで生産される標準的な靴がでまわりかねない。こうして規模の経済と効率性の原理は、靴つくりの仕事から、人間というものに関する総合的な能力を奪い取ってゆく。人間というものについての総合的な能力を必要とするものが「人間的な仕事」だとすれば、④グローバル競争や効率性の原理は、大いなる確率で人間的な仕事」を奪い取るであろう。 もしも、こうした仕事を残し、ある適当な規模の地域や組織を守ろうとすれば、効率性の原理に囚われない、また大量生産と規模の経済の原理に囚われない、つまりは、拡張と進歩の価値に囚われない、別の価値を持ち出すほかないのである「適切な規模の原理」「適切な豊かさの原理」といったものである。最大化を目指すのではなく、「そこそこ」で自足する精神であり、「足るを知る」の原理である。 ⑤「進歩」という思想には恐ろしいところがある。これを経済成長に適用すると、明日は、今日よりよいものを作り出さなければならない。そして「よりよいもの」は「よいもの」を駆逐する。今日、仮に、われわれが「よいもの」を手にしていても、その「よいもの」は「よりよいもの」によって敵対視され、すぐに駆逐される。ということは、今日の「よいもの」を作り出した労働は、たえず無意味なものとなる。ただただ、一瞬の後には役にたたないものを生み出していたことになる。 こんな労働にも仕事にも誰が愛着を持ちえるのだろうか。どうして今日の「よいもの」に満足できないのか。なぜ、自足できないのか。何がわれわれを突き動かしているのだろうか。今日の「よいもの」が、すぐに「よりよいもの」によって放逐され、淘汰されるということは、われわれを絶え間ない慌ただしさ、落ち着きのなさ、心理的な不安定の中に宙づりにする。これが、経済的な「進歩」というのならば、それは「人間的なもの」の「退歩」というほかないであろう。 (2018年 西高校〔四〕 佐伯啓思「経済成長主義への訣別」) 〔注〕 ヘーゲル ――十八世紀のドイツの哲学者。 シューマッハー――二十世紀のドイツの経済学者。 〔問1〕①「国際的で個人主義的な資本主義」、すなわちグローバル資本主義とあるが、ここでいう「グローバル資本主義」とは、どういうことか。その説明として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア グローバル資本主義とは、国境を越えて、世界中へ同じシステムを普遍的に拡張しようとしており、それは個々人が幸福を目指すことを肯定的に方向付ける考え方であるということ。 イ グローバル資本主義とは、さまざまな社会の要請を踏まえて世界中の人々が同じように豊かな生活をすることを目指し、個人の尊重と共に協調を求めていく考え方であるということ。 ウ グローバル資本主義とは、経済的には地球規模のシステムを作り上げることを目指し、人々のそれぞれの文化を重んじながら生きていくことを第一義とする考え方であるということ。 エ グローバル資本主義とは、地球規模の経済を拡げていくけれども、人一人の利潤の追求をまず第一に考え、統一よりも分散が基調としてあるべきだとする考え方であるということ。 〔問2〕②「人間であることの条件」とあるが、筆者は人間とはどのような存在だと考えているか。その説明として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア 人間とは、自己の周囲の環境世界を抜け出して新しい環境を作り出し、科学や技術を取り込んで、より便利な社会を目指していく存在だと考えている。 イ 人間とは、歴史的に与えられた自然環境や世界ばかりでなく、精神的な傾向さえも拘束されており、その中で生きていくほかない存在だと考えている。 ウ 人間とは、自己の周囲との関係の中で適切な行動や役割を認知し、所与の環境の中で必要なものを手に入れ、快適な生活を目指す存在だと考えている。 エ 人間とは、所与の環境の中で安心を得たいと望み、手の届く範囲での幸福だけを求めながら、内へ内へと凝縮する生活を希求する存在だと考えている。 〔問3〕③「小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。」とあるが、筆者がこのように述べたのはなぜか。その理由として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア 人間は地域社会の中で一定の価値観や道徳基準を与えられるため、個人主義的な規律で作動しているような会社組織を知るだけでは上手に人間関係を作っていけないから。 イ 人間は経済や情報の拡張や世界の普遍性について理解を深めるとともに、適正な規模の地域社会や組織の中で価値観や道徳性を身に付けて社会的な存在となっていくから。 ウ 人間は相互に相手を理解できる地域との一体感によってつながっており、居住している土地への愛着心が生まれることによって一定の価値観や道徳心が育まれていくから。 エ 人間は相互に信頼したり事情を了解できる適正な規模の組織や集団があって円滑に暮らしていけるので、とげとげしく創造性に欠ける社会の中では生活していけないから。 〔問4〕④「グローバル競争や効率性の原理は、大いなる確率で『人間的な仕事』を奪い取る」とは、どういうことか。その説明として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア 統一規格を基にする大量生産・大量消費は、人間のみならず環境や気候風土など地域に対する総合知が必要とされない社会を招来するということ。 イ 大規模な経済と効率性の原理で生み出される商品は、機械による大量生産によって作られており伝統的な職人の手仕事を奪ってしまうということ。 ウ 足や道路に関する技術的に優れた知識を持つ職人が作ったオーダーメイド靴は、規模の経済と効率性の原理によって排除されてしまうということ。 エ 形とサイズが情報的に管理され海外の低賃金工場で大量生産された品が世界中に流通していくことで、標準的な商品だけに独占されるということ。 〔問5〕⑤「『進歩』という思想には恐ろしいところがある。」というのはなぜか。その説明として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア 科学や経済が現在のまま発展していくと考えるグローバル資本主義は、人間の生活を規格化された商品で埋めつくし、均質化した社会の中で生きるように強いるから。 イ 「よいもの」が「よりよいもの」に駆逐され、満足することを知らない社会は、将来的に地球の環境を破壊してしまい、人間の生存そのものを脅かすことになるから。 ウ 世界が科学と経済によって永遠に進歩していくのが確定的だとすると、目標に向けて努力し続けなければならず、創造性を欠く人間関係しか築くことができないから。 エ 創造的破壊によって新たなものを作り出し続け、無限に成長するという前提に立つと、現在の活動は一瞬後には無意味になり、人間を不安な心理におとしいれるから。 〔問6〕この文章の論理展開を説明したものとして、最も適切なものを次のうちから選べ。 ア はじめにグローバル資本主義の歴史的由来を説明し、それに対する人間の活動の限界性を指摘して、最後に本来人間のあるべき姿を靴屋の例を取り上げて示し、今後のあり方を示している。 イ はじめにグローバリズムの意義を解説し、それに対して筆者の考える人間であることの意味を例を含めて提示して、最後に両者が矛盾している危険性を提唱しつつ、解決法を示唆している。 ウ はじめに西洋社会の拡張意欲について説明し、それに対して人間活動の求心力や快適性への希求を紹介して、最後にグローバル競争が人間にもたらす豊かな未来への可能性を検討している。 エ はじめに国際的なグローバル経済の可能性を紹介し、それに対する人間のあり方の意義や価値観についての批判的な検討を加えて、最後に人間的な仕事に関する悲観的な予測を述べている。 資料★ 評論文の頻出ジャンル ①社会評論 → 現代社会の様々な問題に対して自分の意見を表明したもの。 ②文化論 → 人間の営み(言語/学問など)に関する考察を述べたもの。 ③文学論 → 実在する文学作品やその作者に対する批評を述べたもの。 ④芸術論 → 実在する芸術作品やその作者に対する批評を述べたもの。 ⑤思想・哲学 → 特定の人物の世界観や人生観に対する批評を述べたもの。(特定の人物は、西洋の歴史的人物であることが多い) 第12講 随筆文 はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 あなたは、いまどこにいるのだろうか。 あなたがいまいるのは、本屋さんだろうか。図書館だろうか。カフェだろうか。それとも自分の部屋だろうか。どこが一番落ち着いて本が読めるのだろう。 シーンという耳鳴りみたいな音が聞こえてきそうな静かな図書館でないと落ち着いて本が読めない人もいるし、逆にカフェのバックグラウンド・ミュージックがかかっていないと落ち着いて本が読めない人もいる。ぼくの町のコーヒー店には、毎日のように夕方になると本を読みに来るおじいさんがいる。家に本を読む場所がないのではなくて、たぶんそのコーヒー店がいいのだろう。 電車の中でも本が読める人は多い。ぼくもそうだ。通勤電車の中では、幅を取らない新書を、しかも自分の専門外の新書を読むことにしている。電車の中は、会話もろくにできないくらいうるさい。うるさいのに落ち着いて本が読めるのはどこかヘンな気もしている。「落ち着いて本が読める」とはどういうことだろう。それは、周りが気にならないということだ。では、その「周り」とはなんだろう。周りの人のことだろうか。ちょっとした雑音のことだろうか。たぶん、そうではない。①本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。だから、ふつう自分の体を気にしなくてもいいような姿勢を整えてから、ぼくたちは本を読む。本に没頭しているときには自分の体を感じていない。体がかゆくなったりくすぐったくなったりしたら、読書に集中できない。読書に体はじゃまなのだ。 もっとじゃまなものがある。それは、自分の意識だ。そもそも自分の体がじゃまだと感じるのは、意識が体に向かっているからである。しかし、本の世界に入り込んでいるときには、ぼくたちは自分の体どころか、自分が自分であることさえ忘れてしまっている。つまり、自分を感じていない。自分の意識が全部本の中に入ってしまって、自分を感じるゆとりもないはずだ。そういう状態を作るためにわざわざ音楽をかける人もいる。別に音楽を聴いているわけではないだろう。意識が自分に向かわないようにすればそれでいいのだ。それが「読書に没頭する」ことだ。 映画やテレビに没頭するために音楽をかける人はいないだろうと思う。ところが、読書するときにはそうする人がいる。読書するときに音楽をかける人は、音楽で「周り」を遮断しているのだ。この「周り」の中には自分も含まれる。音楽で自分から自分自身を遮断しているのである。 こんな風に、文字を読むことしかできない読書に集中するために、ぼくたちは結構高級な技術を使っているのかもしれない。それは、ぼくたちがどうして黙読ができるようになったのかを考えるだけでも、すぐにわかる。 文字が読めないまだ幼い子供は、誰かに本を読んでもらう。物語はまず耳からやってくる。これは読んでいるのではなく、物語を聞いているのである。つまり、物語は体を通してやってくる。そのうちに自分でも読めるようになる。しかし、小さい子供ははじめは声を出して読んでいる。自分の声を耳から聞いて本を読んでいるわけだ。半分読んで、半分聞いている感じかもしれない。 そのうち声を出さなくなるけれども、よく見ていると唇がかすかに動いている。人にも自分にも聞こえない声を出して読んでいるのだ。もう少し成長すると、唇は動いていないけれど、指で文字をなぞっている。ちゃんと目で読んでいるけれども、まだ体の力を借りないと読めない段階だと言っていい。大人でも、急いでいるときには指で文字をなぞることがある。体の動きを借りるのである。 そして最後に、ようやく目だけ動かして本を読むことができるようになる。これが黙読だ。物語に興味を示し始めてからこうなるまでに、ふつう数年はかかる。気の遠くなるような時間だ。読書のために自分を消すことがいかに大変かがわかる。 ぼくたちは、ふだんこういう過程を経て本が読めるようになったことを忘れている。しかしこうして振り返ってみると、長い時間をかけてようやく大変高級な技術を身につけたことがわかる。この技術の勘所は、読書の最中に自分を限りなくゼロに近づけることにある。自分を忘れることにある。スタイナーという文明批評家は、こう言っている。「元来読書というものはきわめて孤独な行為である。それは部屋のなかの他のものから読書を遮断し、読書の意識の全てを閉じた唇の背後に封じこめる」と。その通りだ。そして、その上に自分まで忘れているのである。 (平成23年 八王子東高校〔四〕 石原千秋「未来形の読書術」) 問1 傍線部①「本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。」とあるが、その理由として最も適切なものを、次のうちから選びなさい。 ア 落ち着いた場所で本を読もうとしても、それにふさわしい場所は、そのときの自分の体の調子に影響されてかわるから。 イ 自分では本を読もうと思っていても、自分の体は他のことをしたがっていて、本に意識を集中することが難しくなるから。 ウ 落ち着いて本を読もうとしても、周囲の雑音が絶えず自分の耳に入ってきて、どうしても自分の体を意識してしまうから。 エ 本を読むことに集中しようと思っても、まず自分の体に意識が向かってしまうと、なかなか本の世界に没頭できないから。 問2 第六段の役割として最も適切なものを、次のうちから選びなさい。 ア 前段で述べたことを具体例を挙げて説明することによって、読み手の理解を助けている。 イ 前段で述べたことを別の場合と対比して説明することで、それまでの主張の正しさを強調している。 ウ 前段で説明したこととは対照的な場合を取り上げることで、さまざまな角度から論じようとしている。 エ 前段で説明したことを類似の例を挙げて論じることによって、自説に対する説得力を増そうとしている。 問3 傍線部②「大変高級な技術」とあるが、この技術の要点として筆者が述べていることは何か。本文中から十~十五字で抜き出しなさい。 京大現代文の問題も引っ張る? ライブクラスの国公立大現代文のテキストを参考に。 第13講 小説文 はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 「ド・小説」と言えるものとしてはやはり2012年センター。 第14講 総合演習② ~センター試験を用いて~ はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 2007年(or2008年→内容一致の練習にはいい)本試評論と2014年本試小説? 小説は2002年のもあり? 資料★ 内容一致問題 ①センター試験や私大の問題で最終問題として設置されやすい ↓ これまで問えなかった内容を問うという、「後片付け」の要素が強い ↓ これまでの設問で問われていた範囲以外の部分はどこか?という視点が重要 ②解き方のコツ…(a)本文の理解・整理を踏まえ、明らかに矛盾する選択肢を外す (b)必要に応じて本文の対応箇所に戻る(特にきわどい選択肢) (c)本文のどこにも対応する内容が「ない」選択肢も外せる (d)本文不在の因果関係、本文不在の対比・比較は誤答となる 第15講 傍線問題①「どういうことか」 はじめに 今 資料★ 「どういうことか」(抜き出し問題でもほぼ同様) →傍線部の内容を、「前後の文脈」を踏まえてより充実した説明に置き換えていく。 (a)必要に応じて、傍線部を分解し、各要素の言い換えを探していく (b)傍線部が文の一部に引いてある場合は、一文全体まで拡張して読み直し、主述の対応の確認、修飾語の処理などを行う。 (c)傍線部中の「指示語」は必ずその指示内容を確認する (d)傍線部前後に見られる「接続語」が手がかりになることが多い (特に換言・例示・逆接・並列) 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 根拠を拾う訓練素材として。複数ポイントがあるケース。新情報に着目。同内容は1セットに統一して整理。記述解答を自分で作成せよ。 ① 自分とはなにか。自分を形づくるものとして、たとえば、自分の容貌、自分の体形、運動能力、好き嫌い、性格、才能、感情、欲望などが考えられる。自分が自分に向き合うとは、なによりもまず、そうした多様な要素を自分のものとして自覚することだ。 ② 自分と向き合う意識は、他人にも目を向けているから、自分のなかのさまざまな要素が、他人のうちにあるさまざまな要素と比較されることにもなる。比較して、自分の運動能力はあの人より上だとか、この人にくらべて自分の性格は穏やかだとか、こういう欲望にかられるのは人並み以下だといったふうに、自他の優劣や差異を意識することにもなるし、さらには、自分と他人をまるごと一個の人間と見て、一個人としての自他の優劣や差異を意識することもないではない。 ③ が、自分と向き合うことは、そのように客観的な目をもって自分を見つめることとはちがう。自分のうちにあるさまざまな要素や、それらが一つにまとまった自分というものを、取りかえのきかないものとして、いいかえれば、自分が生きていく上での根本の条件として、主体的に引き受けることだ。近代社会は、一人一人の人間が個人としてかけがいのない価値をもつと考える社会だが、そういう考えの核となるのが、いまある自分と向き合い、いまある自分を根本の条件として生きていこうとする個々人の主体的決意だ。世界との一体感を失い、孤独と不安のうちに浮遊する個人は、その主体的決意によってみずから自分を支えようとするとき、はじめて強い肯定的存在として立ちあらわれるのである。 (2018年 青山高校〔四〕 長谷川宏「高校生のための哲学入門」) 問 傍線部「自分が自分に向き合う」とはどういうことか。その説明として最も適切なものを次のうちより選べ。 ア 自他の優劣や差異を意識し、自分のなかの多様な要素と他人のうちにある要素を冷静に比較することで肯定的に自分を認めること。 イ 自他の優劣や差異を意識することよりも、まずは自分のなかのさまざまな要素を無視して、自分とは何かと一般的に問いかけること。 ウ 自分を形づくる多様な要素は自分のものだと自覚し、他人とは異なる個性的な存在になるため、客観的な視点で自分を見つめること。 エ 自分を形づくるさまざまな要素や、それらによって作られた自分を、かけがいのない自分の有り様として主体的に受け入れること。 主体的=自分の意志・判断によって行動するさま。≒主観的 →「自分から」「自ら」と置き換えればたいてい意味はとれる 「も」=追加。 ①同系統のものが追加されている→前に出てきたものも合わせて整理する必要 (「Bも」と出てきたら、前に出てきた「A」も合わせて確認する) ②並列されている要素すべての共通点を考える癖をつけよ どういうことか(狭義の演繹)→07・08センターもいいよね! 1993年センター 「あいまいだからよい」という最たるものは、他ならぬ言語である。言語は人間にとって、もっとも普遍的な契機であって、言語の使用は生きた人間の日々の証である。言語が「あいまいだからよい」のであれば、人間の日常性はあいまいさによって支えられているわけである。 ② 無限の奥行きと多様性を見せる人間の意識の対象世界に対して、言語の世界は有限性によって特徴づけられる。言語の数は有限だし、一度に発話される文の長さも有限である。言葉の数の有限性は、第一に、ひとつひとつの言葉の意味内容に広がりをもたせ、第二に、意味の多義性を惹き起こすことになる。語られるべき世界の事物は連続的に連なっているのに言葉の数は有限である。このことから、必然的に、ひとつひとつの言葉は、広がりをもった領域を受け持たざるを得なくなる。言葉のこの性格に対して、多義性は副次的なものである。なぜならば、ひとつひとつの言葉が仮に数個の意味をもったにせよ、言葉の総数が高々数倍になる効果を生み出すだけで、このことは連続世界の多様性を前にしてはほとんど無力だからである。 (1993年 センター試験第1問 管野道夫「ファジィ理論の目指すもの」による) 副次的=ある事柄がその主となるものに付随して存在する様子。二次的。 演繹=一定の前提から論理規則に基づいて必然的に結論を導き出すこと。 諸前提から論理の規則にしたがって必然的に結論を導き出すこと。普通,一般的原理から特殊な原理や事実を導くことをいう。演繹的推理。 帰納=個々の具体的事実から一般的な命題ないし法則を導き出すこと。特殊から普遍を導き出すこと。導かれた結論は必然的ではなく、蓋然的にとどまる。推理に近い。 個々の特殊な事実や命題の集まりからそこに共通する性質や関係を取り出し,一般的な命題や法則を導き出すこと。 私大国語の最初に置いたセンター、センター2010(否定)、センター2013(変化)→どういうことか 第16講 傍線問題②「なぜか」 はじめに 今 資料★ 「なぜか」 →「解答→だから→傍線部」という論理関係が出来上がるように、根拠を拾っていく。 (a)傍線部の理解が大前提なので、必要に応じて傍線部の分析を行う (b)「というのは~だから」などの明示された因果関係は必ず拾う (c)根拠が明示されていない場合は、主述の対応を確認する/因果関係を示唆していそうな表現を探す (d)「AだからA」のような同義反復(トートロジー)を作り上げないように気を付ける 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 2015年東大第1問? 第17講 傍線問題③「付帯条件」 はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 私大の問題? センター2013評論の問3あたりもアリ。 第18講 要約問題 はじめに 今 資料★ 要約の方法論 要約=文章に書かれている主要な点を明らかにするために、主要でない部分を削り、文章の論理展開に即して集約したもの。 要旨=文章の中で筆者が最も主張したいことを述べたもの ①文章の構造を的確に把握する(文章全体をブロックに分ける) ②論理の貫通のある箇所を押さえる(文章の強弱を把握する) ※具体例は削ぎ落とす ③どの表現を用いるかを確定する ※原則、本文中の表現をそのまま用いる ④論理関係の保存に注意して、各ブロックの内容をつないでいく ※特に因果関係には注意 1997年センター(コスモロジーのやつ)→200字の要約問題として使う 2018年一橋 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 ① いわゆる「明治時代」は紛れもなく一つの時代であった。一つの共通の精神と行動形式とを持った歴史的構造体を、もし文学上の範疇として「時代」と呼ぶとすれば、明治時代はそういう意味での一つの「時代」であった。それは「天皇の世紀(注)」などにはとても還元することの出来ない色々な次元と色々な側面と色々な要素とそしてそれらから成る色々な傾向を包含した構造的な時代であった。それは、日本最後の内乱を含む革命と動乱の時代でもあり、全能力を傾けて制度を作り上げた時代でもあり、制度の完成と共に生ずる社会的弛みをも新鮮に経験した時代でもあり、新生国の命運を賭けた対外戦争を一定の自制をもって行ない遂げた時代でもあった。そうしてしかも、一つの共通の目標と精神がそれらの諸局面を貫いて生きていた「時代」なのであった。 ② その「明治時代」は維新に始まり日露戦争をもって終りを告げる。日露戦争以後の数年は天皇の世紀としては「明治」に属するかも知れないが、ここでいう歴史的構造体としての「明治時代」にはもはや所属しない。人は、或は、私のような元号批判者が明治時代という呼び名を承認するだけでなく、むしろ積極的にそれを一つの典型的時代の名称として用いようとすることを訝かるかも知れない。しかしむろんそうするには理由と根拠がある。名称というものは、「昭和」であろうと「大正」であろうと、それが意味するところのものへの批判とは別に(その批判がしっかりしたものであればあるだけ)、一応の日常的遣り取りの場面では便宜上習慣に従っておいて少しも差し支えないものである、という一般的な非狂信的態度の薦めの他に、「明治」の場合にはそれ以上にもう少し特別の積極的理由が存在する。 ③ 第一、「明治」の称号は宮廷の都合の結果として生まれたものではなく、維新の社会変動の結実として発生したものであった。その意味で天皇家の世継ぎを意味したに過ぎない「大正」や「昭和」とは全く性質を異にしている。そうして又、社会の内側から出現した自生的な社会的力の自主的な社会活動の一つの成果として――不十分なものではあったがそうした成果の一つとして選び取られたものであったという点で、社会的動揺に対して社会の外側(雲の上)から対応しようとするのを常とした昔の改元とも事情を異にしている。「明治」という元号は、その成立の事情に関する限り、元号の世界では異例で特別のものであった。元号世界の辺境に位置していると言ってよい。嘗て中世において見られた「私年号(注)」は、自由な地方的独立と「熊沢天皇(注)」にも似た既存宮廷への対抗性を持っていたが、「明治」はそれとは政治的性質を異にして全国的統一性と宮廷との合体的性格を特徴としながらも、しかもなお、その元号世界での異例性は「私年号」の異端性と対比されて然るべきものであった。 ④ こうした事情の上に更に、「明治時代」は、先に述べたように一つの歴史的構造体としての性格を明かに持っていた時代なのであった。成果の不十分さや好ましさからざる傾向のいくつかなどまでをすべて含んで「明治時代」と呼んで少しも不都合ではない、と思う所以は以上の二点にある。 ⑤ 一つの歴史的構造体をなしていたからと言って其処にいくつかの政治的局面の変動や思潮の移り変わりや社会の性質の変化がなかったわけではむろんない。明治十年代の政治的変動や二十年代の制度的確立やそれ以後次第に生まれて来る社会的変質、特に日清戦争後に顕著になってくる根本的変化などは史家が注目して分析するに値する問題である。事実、多くの研究がそれらに力を傾けて来てもいる。そのことは極めて当然そうあるべきことでもあり十二分に意義深いことでもある。けれどもそれらの諸変化が「明治時代」を通じて在ったにもかかわらず、維新以来日露戦争に至るまでの「明治社会」には一つの大きな目標が社会全体を貫いてきた存在として働き続けていた。その「柱」によってその時代の諸局面は一つの歴史的構造体へと統合されていたのである。 ⑥ いうまでもなくその目標とは、国際列強に対する日本の「独立」の追求のことであった。その目標に関してだけは、どのように対立する立場も、どのように移り変わる傾向も含めて、その時代の日本社会全体が一貫して追求していたのである。「民権」を核にした「国民主義的独立」の立場と、「国権」を軸にした「国家主義的独立」の立場とが、対立しながら双方互いの中に入り混じって交錯し合っていたのも、その事の現れわれの一つでもあった。「士族反乱」と「藩閥専制への反対」とは元々内面的に深くつながっていたし、「民権の壮士」はしばしば谷干城とか頭山満とかのような色々な型の国家主義者と或る種の親近性を持っていた。そうした事態の中に示されていた「民権」と「国権」の交錯、「国民主義的独立」と「国家主義的独立」の混淆は、一面では「国家からの自由」や「自主的民権」などの精神が、独自の社会的態度として、十分な純化としっかりした結晶度を獲得していなかったことを物語っているが、それと同時に、他面では、列強に対する「独立国家」を作るという目標が、如何に大目標として当時の社会全体の全ゆる要素の中に行き渡っていたかを示してもいた。 (2018年 一橋大学問題三 藤田省三「或る歴史的変質の時代」) (注)「天皇の世紀」 作家大佛次郎(一八九七―一九七三)が、幕末維新の時代を描いた長編歴史小説の題名。 (注)「私年号」 元号を紀年法として採用した東アジア諸国で、安定した中央権力が定めた元号を「公年号」、民間で使用された年号を「私年号」と呼ぶ。日本では中世後期に東日本で多くの例がみられる。 (注)「熊沢天皇」 熊沢寛道(一八八九―一九六六)。敗戦後に、自らが正当な皇位継承者であると主張して話題となった人物。 (注)谷干城(一八三七―一九一一) 元土佐藩士。討幕運動、維新政府で重要な役割を果たした軍人、政治家。 (注)頭山満(一八五五―一九四四) 自由民権運動から民族主義に転じた政治活動家。玄洋社を設立し、アジア主義を唱えた。 問い 右の文章を要約しなさい(二〇〇字以内)。 三木(初見解答時) 「明治」の称号は、維新の社会変動の結実として生じたもので、これまでの改元とは成立の事情が異なる。また、明治時代は一つの共通の目標と精神の貫く、歴史的構造体としての性格を持っていた。よって、一つの典型的時代だと言える。それでも政治的変動や社会的変質はあったが、その諸変化にもかかわらず、一貫して「列強に対する日本の独立の追求」という目標が働き続けていた。それは、民権と国権の交錯する事態が物語っている。(200字) 東進 時代とは共通の精神と行動形式をもつ歴史的構造体だとすれば、維新から日露戦争までを「明治時代」と呼びうる。「明治」は元号とはいえ、宮廷の都合によらず内発的な社会変動の成果として選び取られたものだから、時代の呼称に相応しい。立場の違いはあれ、列強に対する独立という目標が「明治時代」の社会全体を貫いていた。国民主義的独立と国家主義的独立の両立場が対立しつつも親近性をもち、混淆していたことはその証左だ。(199字) 第19講 私大型の問題 はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 早稲田の小説!(私大現トレ第8講→脱文補充がなかなかいい!) 明治のスタンダードな問題もあり! 文整序は…早稲田文学部? ライブクラスの私大国語でやったやつとか。 上智を必ず入れる!! 私大の問題を選ぶ時の基準 空欄問題がある程度練習できること 傍線問題で「根拠1ポイント」の感覚が練習できること 結局は語彙力で決まることが実感できるもの 2012年明治大学政治経済学部(一) 日本美術の特徴として早くから指摘されていたのは、(左右)相称性(symmetry)の強調である。それがもっとも鮮やかにあらわれているのは、建築と庭園においてであろう。 絵画は描く。自然があたえるその対象の多くは左右相称ではない。それを縮小し、稀には拡大し、抽象化して二次元の空間に投影し、おそらく環境の理解や記憶を助けるために、描く。絵画の歴史をどこまでさかのぼっても、旧石器時代の岩窟の壁画に到ってさえも、画面に左右相称的な構図を見出すことは困難なようである。 建築は描かない。それ自身の外部にあるいかなる対象も記述しないし、環境のいかなる要素も反映しない。窓は外部を反映するのではなく、外部に反応する装置である。建築や庭園は、祈るため、儀式や魔術を行うため、商売を営むため、家族が寝起きするため、それぞれ特定の目的のために、建築家が特定の空間を彼自身の考えと好みに従って構造化する空間である。建物は厳密に左右相称的なことも、全く非相称的なこともある。その間に相称性のあらゆる段階があり、それが建築家とその文化に条件づけられていることはいうまでもない。 a 一方に古代ギリシャの神殿からパッラーディオ(一五二〇―一五八〇年)に到る相称性があり、他方に桂離宮や茶室の徹底した非相称性がある。庭園についても同じ。ルノートゥル(一六一三―一七〇〇年)は広大な地域に造園のあらゆる要素、植込みや花壇、水や芝生、大理石の彫刻や手すりなどを、左右相称の幾何学的図型として整然と配置する。およそ同時代に桂離宮の造園家は、小さくかこまれた空間に日本全国の名所の風景を縮小して再現した。その庭の中の小径を辿れば、展望は X する。そこに相称性はなく、幾何学的配置はない。非相称性を中心とする空間の分節化・構造化は、建築と庭園においてもっとも典型的にあらわれる。 (加藤周一『日本文化における時間と空間』) 問1 空欄aに入る最も適切な語を次の中から一つ選びなさい。 ① おそらく ② もはや ③ すなわち ④しかし ⑤ いわゆる 問2 空欄Xに入る最も適切なものを一つ選んで、番号をマークせよ。 ① 千古不易 ② 十重二十重 ③千篇一律 ④ 百花繚乱 ⑤千変万化 資料★ 私大現代文独特の出題形式 脱文補充、抜き出し、段落分け、不要文削除、タイトル付け 資料★ 脱文挿入 ①脱文中の指示語・接続語・キーワードの確認 ②脱文前後の指示語・接続語・キーワードの確認 資料★ 不要文削除 ①前後の内容との矛盾 ②前後にないキーワード 資料★ 文整序 ①論理関係を明示する標識=指示語・接続語 ②抽象・具体関係の発見 ③情報構造の把握(旧情報→新情報、原因→結果) ④整序文と前後のつながり 資料★ 文学史(日本近代文学)の基本 【A】写実主義 →庶民の日常生活と心理をありのままに描き出そうとする立場 ① 坪内逍遥 『小説神髄』で、新しい文学理論を提唱。(1885年) ② 二葉亭四迷 坪内逍遥の考えを受け継ぐ→『浮雲』で実践(1887年) 言文一致(書き言葉を話し言葉に近づける)で初めて文章を書いた 坪内逍遥と生涯の親交を結ぶ ※擬古典主義:伝統を守り調和しようという立場。井原西鶴の写実的生活を理想とする 尾崎紅葉『多情多恨』(写実主義の最高傑作)『金色夜叉』 女性心理 幸田露伴『風流仏』『五重塔』 男性心理 樋口一葉『にごりえ』『たけくらべ』(→森鴎外の激賞を受ける) ※ロマン主義:欧米のように自由な理想を描こうという立場 森鴎外『舞姫』 泉鏡花『高野聖』 → 尾崎紅葉に師事 北村透谷『内部生命論』 ロマン主義運動のリーダーに 尾崎紅葉を批判 ↓日清・日露戦争の影響+自然主義の流れをくみ… 【B】自然主義 →人間の醜い現実をさらけ出して描こうとする立場 ①島崎藤村 → 『破戒』(1906年)『夜明け前』 ②田山花袋 → 『蒲団』(自分の醜い部分を告白する「私小説」)(1907年) 尾崎紅葉に師事 ↓反発 【C】反自然主義 →人間の醜い現実以外の、美や個性を見出そうとする立場 (1)余裕派(高踏派) →世俗的な現実から距離を置き、広い視野とゆとりを持って対象を捉えようとする立場 ①夏目漱石『坊ちゃん』(1906年) ②森鴎外『青年』『高瀬舟』 ③正岡子規『ホトトギス』(俳句雑誌) (2)耽美派 →美を最高のものとする立場 ①永井荷風『ふらんす物語』 ②谷崎潤一郎『刺青』『痴人の愛』 女性の肉体美を追求 ↓大正時代へ (3)白樺派 →人間の自由と理想を尊重する立場 ①武者小路実篤『友情』(1919年) ②志賀直哉『暗夜行路』(1921年)『城(き)の崎にて』 (4)新思潮派 →現実の本質をつかみ、表現する立場(暗い現実を描く) 芥川龍之介『羅生門』(1915年)『鼻』(1916年) ↓第一次世界大戦→社会主義の影響 【D】プロレタリア文学 文学で革命を起こそう! 小林多喜二『蟹工船』 ↓治安維持法により社会主義は弾圧を受ける 昭和へ プロレタリア文学への対抗(文学に政治を持ち込んではダメ) 【E】芸術派 (1)新感覚派:新しい表現技法を用いて描こうとする立場 横光利一『日輪』『蠅』 川端康成『伊豆の踊子』『雪国』 エロスと孤独、抒情性 (2)新興芸術派 井伏鱒二『山椒魚』 梶井基次郎『檸檬』 (3)新心理主義 堀辰雄『風立ちぬ』 伊藤整『幽鬼の街』 ↓戦後…言論の弾圧が解除される 【F】戦後 (1)無頼派 今までの規範をすべて打ち切ろう ①太宰治 『斜陽』『人間失格』 ②坂口安吾 『白痴』 (2)戦後派 ①三島由紀夫『金閣寺』 (3)第三の新人 遠藤周作『白い人』 第20講 総合演習③ ~国公立大学の問題を用いて~ はじめに 今 一 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 ① 数 やっぱり東大2009年の「白」か? 文章は接続詞で決まる(接続詞の分類) https //readingmonkey.blog.fc2.com/blog-entry-674.html 接続語の分類 http //www.nipo.co.jp/conjunc1.htm 公立高校入試における文法問題の傾向 https //toyokeizai.net/articles/-/233465?page=2 文章には2種類の読み方がある(意味を考える読み、字面読み) https //toyokeizai.net/articles/-/233465?page=2 現代文最新傾向LABO 斎藤隆 http //gensairyu.hatenablog.com/entry/2017/11/18/230309 http //www.nishida-schema531.net/index.html スキーマ! 問題提起→①テーマを示す ②読者への注意を喚起する働き
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New出口現代文講義の実況中継 1 現代文には一貫した方法、解き方がある、その論理的な解き方を講義形式で徹底指導。問題は取り外しできる別冊に収録。著者の講義を1回分収録したCD付き。 (amazon商品紹介より) 右画像をクリックするとamazonの商品紹介へ行けます レベル 選択肢 投票 難関 (0) 応用 (0) 標準 (0) 基本 (0) 口コミ 現代文の対策と言うよりも、本の正しい読み方、文章の正しいとらえ方を教えてくれる本です。 実際の問題を解きながら、解説形式で問題を解いていくので、分かり易かったです。
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NEW出口現代文講義の実況中継 (2) 現代文には一貫した方法、解き方がある、その論理的な解き方を講義形式で徹底指導。問題は取り外しできる別冊に収録。著者の講義を1回分収録したCD付き。 (amazon商品紹介より) 右画像をクリックするとamazonの商品紹介へ行けます レベル 選択肢 投票 難関 (0) 応用 (0) 標準 (0) 基本 (0) 口コミ 4周ほど読み込み、答えを導き出す過程を頭に入れたあたりから現代文の正答率があがりました。 たかが現代文と思っていたが、物事の考え方、本の読み方も身につけられる。 私には理解出来ませんでした。
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現代文の単語帳確認テストです。 単語の意味と書き取りを両方出題されるようなので、意味からの書き取り問題にしました。 問題順序は単語帳のままです。 pp.112-120 pp.122-130 pp.132-140 赤字は先生が「漢字で書けるように」と言っていたところ pp.142-154 (ゆったり版)無理やりA4に詰め込んだために解答欄がかなり狭くなってしまったので、A4を2枚使ったゆったり版も作りました 2学期中間 pp.164-172 pp.174-182 pp.186-194 pp.196-204
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New出口現代文講義の実況中継 3 現代文には一貫した方法、解き方がある、その論理的な解き方を講義形式で徹底指導。問題は取り外しできる別冊に収録。著者の講義を1回分収録したCD付き。 (amazon商品紹介より) 右画像をクリックするとamazonの商品紹介へ行けます レベル 選択肢 投票 難関 (0) 応用 (0) 標準 (0) 基本 (0) 口コミ
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はじめに いよいよ皆さんが大好きで仕方ない「解き方」の話が始まります。 試験の冊子が配布され、試験が開始し、最初のページを開けてからあなたがとるべき行動について具体的にまとめたのがこのページになります。 現代文を解くにあたって必要なことがほぼ網羅されていますから、ここに書かれていることを頭に入れて、是非過去問演習をこなしていってください。 書き込みに関して 本文中に書き込むことは全否定しません。特に、練習段階においては、解答根拠に線引きしておく作業は自分の解答プロセスを見直すのに役立ちます。ですが、実戦的なことを考えるならば、あくまで我々の目的は試験問題を解くことですから、時間との勝負であることを常に忘れてはいけません。したがって、 重要な文に線を引く → 特に長い文の場合、線を引くだけでも時間を奪われる 段落ごとに要約し、空いているスペースに書く → 時間がもったいない ということになります。書き込むことの時間を割くことで、読解のリズムが崩れてしまうわけです。そこで、もし書くという作業をしたいというのであれば、 重要なキーワード(内容語)や、指示語や接続語(機能語)に印をつける 重要な文の頭に◎をつけるか、行頭に「↓」と入れておく 例示の部分はカッコでくくる セリフや心内文にカギカッコをつける 図式化し、空いているスペースに書く といった、時間のかからない書き込みをすることをおすすめします。 文単位ではなくあくまで単語単位のチェックにすることによって、本文の内容を単純化してとらえることができます。 ただし、「逆接なら三角、指示語なら四角・・・」というふうに印の種類をいくつもつくる人がたまにいますが、脳に負荷がかかるうえに、印をつけることが目的化して本文内容に集中できない恐れもあり、個人的にはおすすめしません。 なんのために印をつけるのかが大切です。 あくまで、本文の情報構造を整理するために印をつけたくてつけるのです。そのことを忘れないでください。 入試現代文の問題を解く際の大原則 「答えは必ず本文中にある」という言葉を聞いたことある人は皆さんの中にも多いことでしょう。しかし、明確に答えが本文中にあり、それを抜き出すような感覚でどの問題も正解できるとすれば、入試問題としての難易度は下がってしまいます。 ここは「問題の本質」という話になってしまいますが、問題というのは「手がかり」と「雑音」で出来ています。すなわち、 答えがすぐに悟られないように「手がかり(ヒント)」を与える 「雑音」を増やして手がかりとなるものが見つかりにくいようにする このような仕掛けをもったのが「問題」(クイズやなぞなぞといった類のものも含む)なのです。 ですから、皆さんは 本文中の手がかりをもとに答える このように覚えておいてもらいたいものです。 本文中に答えがある、では語弊があります。 大半の問題は、本文の構造や論展開を分析する「情報整理」の問題に終始しています。 たしかに、時には想像によって解答のポイントを作り出すこともありますが、それでも「本文にこう書いてある。ということは・・・」と、本文の内容をもとに導き出して考えるのです。 =必ず本文中に「根拠」を探す、という姿勢を忘れないでください。 読み始めてから解き終えるまでの手順 やり方は色々あっていいでしょう。あくまで一例として紹介します。以下の内容をそのまま採用してもらっても構いませんし、あなた自身でアレンジしてもらっても構いません。大切なのは得点が最大化するやり方をあなた自身の中で確立することなのですから。 あくまで、どう解けばいいのかわからないという人のために一つのモデルを紹介させて頂きます。 ①全体を俯瞰する → 1.傍線部の位置 2.書名と著者 3.設問 ②頭から読む ③傍線部にぶつかったら設問内容を予測し、ポイントを整理する ④一通り読む ⑤改めて設問を確認し、ポイントを整理する ⑥全問題の解答を確定する 簡単に解説します。 まず①。例年通りの傾向や難易度であればいきなり読み出しても構わないのですが、念のため、大問全体を俯瞰する作業をここで行っておきます。傍線部の位置を把握し、どこに力点を置いて読めばいいか、一つの傍線部に対して守備範囲がどのくらいの広さになりそうなのか、などをイメージします。そして、書名を見てどんな分野の本なのかをイメージしたり、著者を見て知っている人であればイメージを膨らませます。最後に、設問を見て、変な問題がないかを確認します。 その上で、②実際に読み出します。ここで大事なのは、筆者の視点だけでなく出題者の視点も常にイメージしながら読み進めることです。筆者の「私はこう言いたいんだ」という声は大事ですが、それ以上に出題者の「今回はこんな文章を引っ張ってみたんだ。面白いから読んでほしい!」「筆者はこう言ってるんだけど、理解できそう?」「ここに傍線部を引いてみたから、このあたりは頑張って読み込んでほしい」という声にも耳を傾けてほしいです。となれば、冒頭部を読めば「あー、この話題の文章を引っ張ってきて読ませてきたのね」と思うし、ラストを読み切れば「なるほど、この結論で切れば文章全体のまとまりは綺麗だね」と思える。出題者がどんな気持ちでその文章を見せているのか。どんな気持ちで設問を解かせようとしているのか。――そういえば、ここで思い出しました。東進の地理科の某先生が言っていた擬人法的な言葉を引用しますが、「問題は解かれたがっている」。解かれたいという出題者の視点を常に忘れないでくださいね。 そして③。僕が今回提示したモデルが、一般的な方法論と最も異なるのはここでしょう。一般的には「全文読んでから設問に入る(=読んでから解く)」ないしは「傍線部にぶつかるたびに解いていく(=読みながら解く)」というやり方が推奨されます。 ですが、 読んでから解く場合→読むことが目的化してしまうリスク、すべてを頭に入れることで脳(の記憶容量)がパンクするリスク 読みながら解く場合→本文と設問を何往復もし、無駄な時間が生まれてしまうリスク、設問設置箇所の近辺では解決できないリスク というように両方にリスクやデメリットがあります。 そこで、両者を中和したのが、③のやり方なのです。すなわち、傍線問題の場合、だいたいの設問は傍線部の「内容説明」もしくは「理由説明」に終始するわけですから、いちいち設問に行きません。このことでページをめくる手間をなくし、本文の読解に集中します。そのうえで、傍線部をそのまま通過するわけでもなく、しっかりその都度、近辺のポイントの整理も行い、これを全傍線部・全空欄に対して行っていきます。 「解くことを一旦保留して全部読み通してしまうなら、結局、整理したポイントを忘れてしまうではないか」と突っ込んでくる人もいるでしょうが、ページをめくったり実際に解答する手間が省かれた分、スピード感は増すはずですし、一通り読み切るまでの時間は確実に短縮されます。 僕自身はもともと、林修の影響で「読みながら解く」でやっていましたが、上記のモデルを思いついてからは、共通テストの第1問であれば10分以内に全文を読み切る(なおかつ各設問で問われるであろうポイントの整理も大体終わっている)状態が作れるようになりました。 部分理解と全体理解をバランスよく組み合わせて解けますし、選択問題の判断スピードも明らかに上がりますから、このやり方は大変おすすめです。 このやり方で解説している授業を自分は聴いたことがないので、いつか動画として作りたいと思っています。 もちろん、何度も言いますが、これが絶対だ、とは言っていませんから、「傍線部にぶつかるたびに解いて、暫定的な解答を出していく」というやり方が合っている人はそのやり方を貫いて頂いて構いません。 解答手順の3ステップ 設問を確認した後の解く流れは色々あっていいと思います。 ですが、上記の大原則を押さえるならば、少なくとも、 ①設問要求の確認:出題者の意図の把握 ②ポイント拾い ③選択肢チェック(必要条件の積み上げ)or記述(十分条件の積み上げ) この3つのプロセスを踏むことになります。 まず①ですが、「題意は神様」とも言ったりするくらい、どの科目にも共通する最重要ステップです。 記号問題でない場合は、付帯条件として 「~字で」「~文で」「~行で」(それぞれ字数、文の数、行の数) 「文中のことばを使って」 「書き抜きなさい」「書きなさい」(書き抜きかどうか) 「ここより前(後)の」(範囲) 記号問題だとしても、 「適当でないもの」「合わないもの」 といったものを押さえないと思わぬミスをすることもあるでしょう。 次いで②です。傍線問題であれば傍線部を起点として、指示語や接続語やキーワードに頼りながら本文の情報構造を整理しつつ、芋づる式にポイントを拾い上げることになります。空欄問題であれば空欄自体は分析できないにせよ、これまた近辺の内容を整理するなかで空欄に入る内容についてある程度の予測を立てていくことになります。いずれにせよ、設問設置箇所(傍線部または空欄)を起点としてそこから放射状に視野を広げていき、攻めていくことになります。 また、内容一致問題の場合も、出題者の意図としては「これまでの設問で問うていない部分を後片付け的に問いたい」が本音なのですから、どの箇所が選択肢として採用されそうなのかを予め検討することは可能なはずです。ですから、それまでの傍線問題や空欄問題を解くときに、各設問が本文のどの範囲の理解を問うているのか、すなわち守備範囲の明確化をしておくことが肝要です。 そして最後に③です。「必要条件」「十分条件」という数学の用語を用いましたが、詳しくは次の項目「正解とはなにか」を読んでもらえればよく分かると思います。 いずれにせよ、設問要求を見るというのが一番大事になってきます。そこを踏み外した瞬間すべてが崩壊する、くらいに思っておいてもなんら問題ありません。 そのうえで、それでもポイントが拾えなかった場合は、実力不足と考え、②を飛ばして③に突入するのもやむを得ません。ですが、選択問題における「消去法」という解き方は次善の策であり、おすすめはできません。 正解とはなにか 解答を出すにあたって、選択問題にせよ記述問題にせよ、「そもそも正解とはなにか」ということについて考えておくことが必要になります。 正解とは、「設問の要求に必要十分に答えたもの」です。 ここで、数学で学習する「必要条件と十分条件」という概念を取り入れながら、入試現代文における「正解」なるものについての理解を深めていきましょう。 「AはBであるための必要条件でもあり十分条件でもある」と言った場合、AとBは「同値」であると言います。Aがあなたの解答でBが出題者(=採点者)の用意した解答であるならば、この同値状態をつくることが正解に至るということです。 しかしながら、これができれば苦労しません。 例えば、共通テストの問題で、解答の選択肢に書かれていることを完璧に予想できれば苦労しませんし、二次試験の記述問題で、過不足のない満点答案がつくれるのであれば苦労することはありません。 実際には、あなたの解答=Aが不完全な状態というのが現実的に何度も起こりうるわけです。 そこで、「Aが必要条件である」というケースと「Aが十分条件である」というケースについてそれぞれ考えてみましょう。 「Aが必要条件である」(必要条件の選択肢、必要条件の記述解答とは?) 「Aが十分条件である」(十分条件の選択肢、十分条件の記述解答とは?) 必要条件とは、文字通り「必要な条件」のことですが、より厳密に言うなら、「必要なものは含んでいるがそれだけで終わっているもの」です。例えば、「アジア人であることは、日本人であるために必要だ」と言ったりしますが、この場合、「アジア人である」ことは日本人であるための絶対条件ですが、必ずしも日本人であることに直結しません。中国人は?韓国人は?と反例が生じます。日本人であるためには、他の条件も兼ね備える必要があります。例えば、そこで、「東アジアの人」「島国に住んでいる人」のように条件を足していくことによって、日本人と同値の状態が作られます。 これを現代文の選択肢に置き換えるならば、必要条件で終わっている選択肢とは、「必要なポイントは押さえているものの、他に余計な説明が入っているもの」ということになります。数学における「反例」が、現代文においては「解答から外れる要素」にあたります。 つまり、必要条件の選択肢や必要条件の記述解答というのは、「正解」という観点からすれば、欠陥を含む不完全なものだと言えます。 一方で、十分条件ですが、これは注意する必要があります。「それでもう十分な条件」と置き換えてしまう人がいますが、そのように完全無欠であると解釈してしまうと、必要十分条件であることと混同してしまいます。先ほどの例文をいじくるならば、「東京都民であることは、日本人であることの十分条件」なのですが、これは言い換えれば「東京都民である時点で、十分、日本人である」ということを意味します。しかし、包含関係をイメージすれば、日本人の中の一部として東京都民が含まれているわけですから、両者は完全な同値関係ではありません。十分条件って、日本語の響きからイメージしてみると全然十分ではないんですよね。 これは現代文の選択肢・記述答案で言えば、「正解に必要なポイントのうちの一部を押さえているだけで、他のポイントを押さえていないもの」となります。答案としては満点ではないため、「不十分」なのでしょうが、必要条件の場合と違って、誤りは一切含んでいない――そういう意味で「十分」と言っているのです。 ここで、選択問題と記述問題のそれぞれの対応方法や方針が明確になりました。それはすなわち、 選択問題=必要条件で選択肢を絞り込むことで正解にたどり着きやすくなる(時間が余れば、十分性〔=誤りを含んでいないかどうか〕も検討する。)→まずは核心を押さえている選択肢を見つけ、それ以外の選択肢を保留しておく。その選択肢がボツになったら他の選択肢を検討する。記述問題=十分条件を最低限押さえることを意識し、そこに必要条件を加味して答案の質を上げていく。 いかがでしょうか。是非このようなことを意識して入試現代文の問題にチャレンジしてみてください。
https://w.atwiki.jp/jap0/pages/190.html
解きに徹する現代文 第0章 はじめに この本は、筆者がこれまでの現代文の指導経験をもとに現代文の読解法をまとめたものです。一種の「参考書・問題集」のように考えてもらって構いません。しかし、この本は「コミケ」用です。出版社を通して本格的に書店で販売されて全国に回るような、そういう類のものではありません。その性質上、できるだけ「エッセイ風」に、つまり、筆にまかせるように自分の理論を伝えていくつもりでいます。まあ、正直なことを言うと、この原稿を書き始めたのが十二月十三日。コミケに出展するのが十二月三〇日。二週間ちょっとしか時間がないので、「きちんとした形式で」「細部の表現にも気を払いながら」書いている余裕はないのです。ですから、ツイッターにつぶやくような感覚で書き進めていけたらと思います。その分、僕の真の思いがストレートに伝わりやすいのではないかと思います。ちなみに、僕は敬体と常体を混ぜて文章を書くのが好きな人間です。僕のスタイルといいますか。というわけで、本書でも混在した書き方をしていきますが、その点はあしからず。 さて、今回なぜ僕がこの本を書こうと思ったのか。コミケに出展してまで本を出そうと思ったのはなぜか。皆さんの気になるところだと思います。そもそも世の中には既に、プロ講師の書いた大量の現代文の参考書が出回っており、それを使いこなしていけば現代文の点数は普通に上がるはずです(断言はできませんが…)。それでもこの本を僕が世に出そうと思った理由はというと…… ① 単純に、これまでの指導経験の集大成を皆さんに見せたいと思ったから。(言わば「自己顕示欲」充足のため、と言ってもいいと思います) ② 世の一般的な現代文指導に不十分なところが多く、そこを補填したいと考えたから。 主にこの二点です。①に関しては説明不要でしょう。②の「不十分なところ」が何を指しているのか気になる人も多いと思います。それは、一言で言うならば「汎用性・再現性」です。これが足りていない。 「汎用性」「再現性」をそれそれ定義するならば、以下の通りです。 ★ 汎用性=どの問題でも通用する解法である。 ★ 再現性=誰がやっても使える解法である。 現代文の授業を塾や予備校で既に受けたことがあるという方(受験生でも社会人でも)、この点についてはどうでしたか? いい授業というのは、一度その授業で習ったことが他の文章読解の際にも応用できる授業。逆に悪い授業というのは、授業内での説明が「その場限りの説明(その文章に限ったお話)」メインになっている授業。ざっくり定義するとこうかなと。そして、後者の授業が多いのでそこに僕は楔を打ちたい。そういうことなんです。というか、前者の授業が実現できれば、合格した生徒はのちに「この先生は教え方が分かりやすくて、点数にもなるいい授業だった」って言ってくれますよね。絶対にそのほうがいいじゃないですか。僕はこれが原点(言動力)となって現代文の指導に熱意をもって取り組むことができています(笑)。 ただ、読者の中に現代文指導に携わっている方がいらっしゃれば気をつけていただきたいのですが、後者の授業を僕は完全否定していません。例えば、授業で小説を扱ったら、その小説の解釈にどっぷりつかる。場合によっては作者の文学観なども伝えて、その作品に対する理解を深めていく。そういう「内容」指導メインの授業は、それはそれで悪くないです。結果的に現代文の力はつきますし。しかし、僕からすれば、そういう指導だと、 ① オーバーワーク!:そこまでやる必要があるのか、という問題。受験生は現代文以外の科目も勉強しなければならないので、できるだけ最低限の詰め込みで点数が取れるようにしたい。確かに、内容指導によって教養が身についたり、他科目の点数UPにつながったりすることもあろうが、その「UP」分って、そんな大した伸びではないと思うんですね。それよりも演習量を増やして読解法の定着を図ったほうが点数UPには貢献するのではないか、僕はそう思います。つまりは、「点数UPへのこだわり」という観点が大切なのではないかと。しかもその指導を受けた生徒「全員」の点数UP、これが重要だと思います。文学について語ったところで、興味のない生徒はついてこれず、結局点数が伸びない。こういう恐れもあるわけですね。それなら、もっと方法論に特化した授業でいいのではないかと思うわけです。 ② 生徒は「方法」を知りたい!:生徒のニーズは間違いなくこれです。特に最近は、受験生全体を見ていると、昔以上に「効率」重視で勉強する向きが表れているように思います。短時間での成績UPを実現させるような媒体(参考書しかり、ユーチューブしかり)が増えているのが背景かなと僕は思っています。したがって、枝葉の雑談や、その文章に特化した内容説明はさておいて、他の文章でも使える読み方・解き方の伝達、これが求められているのではないかと思います。 というわけで、僕が「汎用性・再現性」を重視する理由がこれでおおむねご理解いただけたのではないでしょうか。 補足になりますが、「汎用性」と「再現性」は両方大切であり、片方だけではダメです。例えば、「汎用性」はあるが「再現性」のない解法はまずいです。「手順が細かく具体化されており、覚えられない」という状態などは、まさにそうです。また、「再現性」はあるが「汎用性」のない解法はまずいです。「パターン数が少ない」状態がこれにあてはまります。例えば、「指示語が出てきたら前を見る」しか武器を与えていないと、指示語のない問題には当然ながら対応できません。武器自体は使えるものであっても、使えない問題(=例外)が出てきては意味がありません。となれば、パターンを増やすだったり、より広い枠組みを用意するだったりといったことが必要です。 ここまで語れば、汎用性と再現性、この二つが両方成立していることが非常に重要である、皆さんにもそう思ってもらえるかと思います。大丈夫でしょうか。(対面で伝えているわけではないので、皆さんからのフィードバックをダイレクトに受けられないのがもどかしい…。) さて。ではその「汎用性・再現性」の高い指導をどうすればいいのか、というのが次の話になりなす。これがなかなか難しいんですよ。僕自身苦戦しています。というか、僕に限らず多くの現代文講師の本音がこれだと思うんですね。僕自身、塾講師として現在小中学生に国語の集団授業をやっていますが、同僚講師から「国語って教え方難しいよね」という話をよく聞きます。我々講師からしても、一貫性のある指導がなかなかしにくいんです。そしてこれは、現代文という科目の性質上、当然のことだと僕は思います。「こういう手順で解くと正解にたどりつけるよ」という方法論が確立しにくいのです。一定の手順で解けない。 それはそれで大切なことだとは思うんですね。数学の問題と似ています。数学の問題って、閃きが必要ですよね。それと似た要素が、国語の問題においてもあると思うんですね。要するに、「解答の根拠を拾う」のに皆さん苦戦するわけじゃないですか。でも「出来る」人はパッと拾ってしまう。こういう「閃き」に近い要素が現代文にもありそうなのです。そうすると結局フィーリングで解くことになる……。これはこれで、現代文という科目の一性質と考えて間違いないと思います。 しかし! 「そういうもんだから、フィーリングで解こう」と言ってしまえば、我々は楽ですが、困ってしまうのは生徒です。生徒は、問題を解いた経験が我々よりも少ないので、パターンをそんなに持っていません。また、文章への理解度も薄いのがふつうです。となれば、大人たちの持つ感覚が彼らには備わっていない。ですから、「どうやったらそう解けるの?」「どうやったらそう読めるの?(読めないんだけど!)」となるのは当然のことです。そういう生徒を見ていると、こちらとしてもやはり何かしらの「法則」「パターン」「テクニック」を伝えたくなります。 しかし! それでは本当の意味での読解力は上がらない…。しかも、パターンやテクニックにはふつう限界があります。つまり、それまでにない傾向の問題が出たときに対応できなくなります。 さっきから「しかし」を多用していますね、僕。要するに、こうした葛藤に僕はずーっと悩まされてきたんです。そして、いろいろ考えて出した結果、以下のようなスタンスで解法を確立することにしました。 ①手順は細かいところまでは定式化できないので、「ざっくり」まとめる (参考:富田一彦『試験勉強という名の知的冒険』) ②具体的な対応方法(「こういうときはこうする」という「パターン」)をオプションとしてたくさんまとめておく 要するに、「ざっくりとした手順をもとに進めて、詰まった場合は、たくさんあるパターンの中からその場に合ったものを選択していく」という感じです。手順もパターンも用意しているので国語が苦手な人もついてこられます。また、手順をざっくりさせておくことで、汎用性が一気に高まります。つまり対応力もUPします。この考え方は、アルゴリズム(完全なる手順に基づく解決)ではなくヒューリスティック(閃きによる解決)に解く、という立場でもあります。 そういうわけで、本書では①(手順)と②(細かい諸々のテクニック)を両方示していきます。そして、実際に問題の解説までしていきます。ぜひ、夢中になって読む込んでください!受験生の方には「あー、そうやって解くのか!」と感動してもらいたいですし、現代文講師の方には「あー、そうやって教えればいいのか!」という感じで刺激を受けてもらいたいです。というか、そうなるような内容に仕立て上げていきたいと思います。 第1章 具体的方法論 ◎設問パターン さあ、ここからが本書の本論です!僕がどんな思いを背景に、どんな方法論を練り上げたのか。そのことを漏れなくお伝えできればと思います。もちろん読者の皆さんとしては、方法論「そのもの」が一番気になると思うんですが、それがどういう過程で引き出されたのかという「途中経過」にも注目してくださいね。そのほうが方法論「そのもの」への理解も深まりますので。 さて、ではまず考えねばならないことが一つあります。そもそも現代文の問題にはどんな問題があるのでしょうか。その全体像を認識せずにいきなり中身に入るのはよくないでしょう。皆さんには、まず「どんな問題があるのか」を知り、実際に入試問題を解いたときに「あ、あの問題か!ってことはこうやって解けばいいんだ」とパターン認識していく必要がありなす。 現代文で出題される問題は、大きく以下のように分かれます。(中学国語においても状況は一緒です。) ①特定箇所・特定範囲の理解を要求する問題 ②原文の復元を要求する問題 ③その他 簡単に説明します。①は、主に傍線問題のことです。特定箇所の理解を問うていますよべ。他にも、「第三段落の役割は?」「第一段落の要旨は?」といったものも①に当てはまります。これは、特定箇所とうよりも特定「範囲」という感じですね。 ②は、主に空欄問題のことです。空欄の中にもともと入っていた語句を復元できるかが問われています。脱文補充、並び替え、誤文訂正なども②に含まれます。 ③は、①にも②にも当てはまらない問題すべてです。漢字の問題、言葉の意味を問う問題、内容一致問題、タイトルを選ぶ問題、段落分け・場面分けの問題などでしょうか。 こう見てみると、国語の問題のメインは「傍線問題」と「空欄問題」であることが分かります。ここからは、この二つに話を限定していくことになります。 傍線問題に関しては、 ①心情の理解を問う問題 ②傍線部自体の意味理解を問う問題 (例)「どういうことか」 ③傍線部の理由を問う問題 (例)「なぜか」 ④その他(傍線部に関連した、①~③以外のことを問う問題) の四つに分かれます。 ◎心情問題 小説文が出題されると、しばしば問題として出題されるのが心情問題です。苦手な人が多いのではないでしょうか。苦手な理由として、しばしば「登場人物の心情なんて書いていないから、答えが出せるわけがない」「書いてないから、想像するしかない。想像の仕方は人それぞれだ」など、さまざまなことが言われます。僕は、そういった論はちょっとどうなのかな、と思います。こういうことを言う人たちは、「登場人物の心情なんて分かりようがない。だから入試問題で小説文が出題されるのはおかしい」と言いたいんでしょうかね。だとすればかなり極論だと思いませんか。現に入試問題で小説文は出題され、そこでの点数が合否判定の材料として使われてきたのですから。 ここで一つ大事な視点は、「設問ありき」という考え方だと思います。確かに、登場人物の心情が明示されていないとき、その捉え方に幅が生じてしまうことはあるでしょう。それでも、例えば、 登場人物の心情を選ばせる、選択問題として出題 正答以外の選択肢すべてに明確な誤りがある このような形で設問を作ってしまえば、一応問題としては成立しますよね。また、仮に心情を述べる記述問題の形で出題したとしても、採点基準を明確化して、明らかな矛盾やズレのあるものだけ減点していき、想像で補う部分に関しては幅をきかせて採点してやれば、きちんと入試問題として機能してくれるはずです。 さて、では具体的に心情問題について考えることにしましょう。まずはじめに押さえておきたいのは「心情の描かれ方」です。それは一言で言えば、「状況→心情→外面描写」の三段階になります。 そもそも心情が生じるためには、その原因となる状況や場面が前提として必要です。例えば「嬉しい」と思うためには、「テストで満点を取った」などといった状況が必要です。「悲しい」と思うためには、「友達に殴られた」などといった状況が必要です。これはちょっと例が分かりやすすぎますね。実際には、この「状況」が複雑化するケースが多々あります。例えば、友達に殴られて「嬉しい」と思った、みたいな話とかね。この場合、そもそも大前提として、その人が「ドМ」である、という性格であることが必要です。こんなふうに性格なども加味して一つの状況を捉えていかねばならない場合もあります。あるいは、「お前ってS?М?」→「実はМ」→「じゃあ殴るぞ」みたいな会話が事前にあった可能性があります。この場合、状況は「A→B→C→D」というように、複数の出来事を連鎖的に並べて整理する必要があります。 「状況」についてはこれで大丈夫でしょうか。心情が成立するためには「状況」が必要だということです。裏を返せば、問題を解く我々は、「そもそもここでは今どんな状況なんだろう?」とまず前提を振り返ったうえで心情を考えていく必要があるということです。 さて、話を「外面描写」に移します。何らかの状況があって、心情が生じます。しかしながら、その心情は省略されることが多いです。なぜか。心情を明示したら小説として面白くないからです。どこかの参考書で、「小説文=心情を間接的に表現した文章」と定義しているものがありましたが、本当にその通りです。間接的に別のものを使って心情を表現する。そうすると読者は必然的に、想像力を駆使しながらパズルを解読するかのように心情を読み取っていくことになります。そういう文章って「読み応え」があって面白くないですか。だから読み手もそういう文章を書くんです。(そして、これが小説において「表現技法」(比喩など)が駆使される理由にもなります。当然、それが問題として聞かれることも多いわけです。) そんなわけで、心情は省略されやすい。ただその代わり、それが読み取れるような「外面描写」を描くのが鉄則です。さすがにそれを描かなかったら、出来事がただ並べられただけの文章であり、小説文の条件をそもそも満たしませんからね。「外面描写」とは、心情が反映されたもの、ぐらいに考えてください。例えば、表情や行動ですね。嬉しいと思ったら笑ったり、その日スキップして帰宅したりします。実際に皆さんがスキップするかはおいておいて、少なくともそういう描き方がされれば読み手は「ああ、嬉しいんだな」って分かりますよね。だから問題が解けるわけですよ。 確かに、ここでは多少の「常識」がいります。スキップした主人公の姿を見て「悲しそう…」と判断してしまう人は、当然、点数は取れませんからね。まあ、今回の例は分かりやすすぎますが、例えば、第二次世界大戦中における家族の状況、などをテーマとした小説が出てきたらどうですかね。おそらくある程度の「時代背景」をイメージして問題を解くことが求められるでしょう。ですから、ある程度の常識は必要です。これは他のジャンルの文章でもそうですよ。ただ、特に小説文がそうです。ですから、皆さんは今後、問題を解きながら、解き方を定着させていくことはもちろんですが、解くうえで必要な前提知識がそろっているのかにもある程度は目を向けてくださいね。「あ、俺、この言葉の意味分かってないな」とか。そういうのが自覚できるかどうかって、現代文の学習においてはめちゃくちゃ重要ですよ。 さて、外面描写に関しては大丈夫でしょうか。主人公の心情が、表情や行動など、さまざまな形になって表れる、ということです。ここでひとつ、厄介なパターンとして覚えておいてほしいのが、外面描写として「意図的行動」が描かれているときです。意図的行動とは、登場人物が何らかの結果を意図(希望)してとる行動のことです。(その先を見据えている、というのがポイントでしょうか。)例えば、不登校になりかけのA君がいたとします。朝になると親に「学校行きなさい!」と強く言われる。そしてA君はトイレに駆け込み鍵を閉めた(これが「意図的行動」)。さあ、このときのA君の心情、分かりますか? 当然、不登校のA君が思うこととしては「学校に行きたくない」ですね。より具体化して言えば「学校に行かねばならないという現実から逃げたい」ということです。今までと何が違うか分かりますか?今までは、「テスト満点→嬉しい→スキップ」のように、そもそも行動がかなり「反射的」です。この場合のスキップって、何も「スキップしたらこんないいことがあるから…」「スキップすることでこうなりたいから…」ということを意図(希望)しているわけではないですよね。むしろ、嬉しくて勝手に体が動き出している感じです。つまり、行動には反射的行動と意図的行動がある。そして、前者の場合、心情はシンプルな「喜怒哀楽」で表現されやすいのに対し、後者の場合、心情は「~しようと思っている」「~したい」というような意図や希望の形で表現されることになります。なお、反射的行動と意図的行動が混ざって出てくるパターンもあるので、必ずしもどちらか片方のみに分類できるとは思わないでください。このあたり、柔軟さが必要です。 心情に関して、最後に一つ特殊なパターンを紹介させてください。例えば、「お前は浮気についてどう思う?」→「よくないと思う。浮気された側の人がかわいそう」みたいな会話があったとします。このときの、答えている側の人物って、「浮気はよくない」という心情を抱いていますよね。こういう、心情というよりは「考え方」「価値観」に値するような内容が出題されることもよくあります。こういうケースも理解しておいてください。 どうですか? はじめはシンプルに「状況→心情→外面描写」という話で始まりましたが、実際には「こんなパターンもある、あんなパターンもある」と、すごく複雑でしたよね。国語、特に現代文っていうのはそういう科目なのです。だってそうでしょう。文章なんていくらでも書き方があります。小説文においてもさまざまな心情の描き方があります。ここで大事なのは、やはり、「ざっくりとした解き方の手順」と「詳細なオプション」を持っておくことです。前者を常に意識して問題を解き、後者を道具として活用しながら目の前の問題に対応していく、という感じです。 ではひとまずここで、心情問題(「傍線部とあるが、このときのA君の心情は?」のような問題)について方法論を一通りまとめてみようと思います。(ただ、やはり「すべて」を網羅しようとすると、どうしても、ここまで説明できなかったことなども出てきてしまいます。そこに関しては、ひとまず目をつぶっておいてください。) ◎手順 ①設問:ターゲットとなる人物の確定(「誰の」?) ※特に、描かれている人物が複数いる場合は意識せよ ②傍線&周辺:「状況→心情→外面描写」を確認 ※傍線部が外面描写になっていることが多い ※心情のねじれ → 2つの要素が必要 ◎「状況」のパターン ※状況=心情の発生の原因・前提となる状況・場面 ※基本は傍線部より前をたどれば状況は確認できる ①他人の外面描写(特に、直前のセリフ・行動) ②自分の状況の変化 ③自分の回想・想像 + ④自分の性格・経験 (特に、①~③が心情に直結しない場合、特殊な事情があると考えて④を押さえる) ◎心情のパターン ①喜怒哀楽表現(慣用句含む) ②心内文(心の中のセリフ):考え方・価値観 ③意図・希望 →傍線部が「意図的行動」の場合、これ! (状況から分かることもあれば、その先の結果から逆算して分かることもある) ◎外面描写のパターン ①表情 ②セリフ・口調 ③行動・態度 ※行動には反射的行動、意図的行動がある ④情景 とりあえずこんな感じです。必要な説明を補います。「心情のねじれ」というのは、相反する心情(アンビバレントな心情)を同時に抱いている状態です。例えば、試合前日に「期待感」と「緊張感」という相反する心情を抱いたとすれば、これがまさに「心情のねじれ」です。これが出てくると、たいてい選択肢には2つの要素が書かれます。「~ながらも、…」「~と思う一方で、…」「~だが、…」というように。 状況のパターンの中にあがっている②と③に関しても、具体例があったほうがいいでしょう。例えば、「自転車に乗れるようになった」→「嬉しい」。これはまさに「自分」の変化ですよね。他にも、「一人暮らしをすることになった」、これも「自分」の変化です。「家族全員で引っ越すことになった」、これも、厳密には自分とその周りのメンバー一体となっての変化ですが、自分の変化とカウントして考えましょう。そして、③の具体例としては、例えば、受験勉強中なかなかやる気が出ないときに、「勉強した結果いい点数がとれて先生にほめられた」という過去の体験を思い出したとします(こういうのを「回想」と言います)。この場合、回想し終わった後、おそらくその人は「よし、頑張るぞ!」と気合を入れることができるでしょう。回想前はやる気がなかったのに、回想後一気にやる気があふれ出しましたよね。こんなふうに、回想というのは心情の変化に影響を与えます。つまり「状況」のパターンとして扱えます。 そして、外面描写のパターンに関して押さえておくべきこととして、まず「セリフ」なのですが、これは心情とかぶる場合が往々にしてあります。このあたり、厄介ですね。例えば、「嬉しい!」と言った場合、そのセリフ自体がその人の心情を表しています。そして「口調」に心情がにじみ出ていることもあります。例えば「あー、やっちゃった…」→後悔、「えっ?!」→驚き、といった具合に。そして「態度」。これは「黙った」が典型例。こういう静的な外面描写が「態度」です。たいてい黙っている人は不満を抱えていたりしますね。最後に「情景」。これは心情が投影・反映された景色のことです。例えば、テストで0点を取ったときの帰り道は、「暗い夜道」だったりします。暗い心情なので暗い情景を描くんです、書き手側が。他にも、曇らせたり、雨を降らせたり。あとは、「騒がしかった周りの音が何一つ聞こえなくなった」みたいなのも情景に入れていいでしょうね。ショックを受けたときによくある描写です。要するに、個々の人間の描写ではなく、周囲の雰囲気や環境の描写であれば「情景」にカウントしてしまえばいいでしょう。 とまあ、方法論の説明はここまでになります。よくよく振り返ってみれば、「基本の説明→方法論のまとめ→補足(つけたし)」みたいな構成になっていて、悪く言えばまとまりのない書き方なのでしょうが、最初にすべてを詰め込んでからまとめていくよりもこの書き方のほうが皆さんの側からしても頭に入りやすいのではないか、と今書いてみて思いました。とりあえず心情問題はここまで! ◎説明的文章における傍線問題 さて、いよいよここからは説明的文章です。そもそも現代文に出てくる文章のジャンル分けはどうなっているのかというと、ざっくり分ければ「文学的文章」と「説明的文章」。前者に小説文、後者に論説文・評論文が分類されます。そして「随筆文(=筆者が自分の体験をもとに考えを述べた文章)」というのがあってこれは文学的な要素を感じることもあるので分類が難しいですが、基本的には後者ですかね。他にもさまざまなジャンルのものがありますが、ざっくりジャンル分けはこのぐらいを押さえておけば十分です。 ここから自分が伝えていくのは、「傍線部とあるが、どういうことか」「傍線部の説明(意味)として適切なものを選べ」「傍線部とあるが、なぜか」といった問題の方法論です。僕の感覚では、こっちのほうが苦手な受験生が多いという印象です。まあ、どうなんですかね。普段見ているのは高校受験を目指す中学生ですが、大学受験の場合だとまた話は変わるかもしれません。評論文は型が決まっていて解きやすいが、小説文はちょっと……という人もいるかもしれませんね。まあそれはさておき、ここから話していく方法論は、言ってみれば心情問題以外のほぼすべての傍線問題に通用する方法論になるので、習得できれはかなりの得点源になるはずです。(こっちのほうが出題率は高い印象です。センター試験の小説文を見てみても、心情問題とは言いにくい、「傍線部の意味理解を問う」ような問題は普通に出ますから。小説文の一部の問題も、説明的文章の解法で解けることがあるのです。) それでは、傍線問題の解き方について話を始めます。傍線問題を攻略するにあたって、まず皆さんに念頭に置いてほしいのは「傍線部分析」の重要性です。文章を読んでいて傍線部にぶつかったら、まずはこの作業をしてください。傍線部を徹底的に解剖してあげるイメージ。慣れれば数秒で出来るようになります!(タイミングが重要です。文章全部を読み終えてからやるのではなくて、文章を前から読んでいき、傍線部にぶつかったらその瞬間にこれをやるのです。前後の文脈が頭に記憶・イメージされている状態でこの分析を行うため、かなり精度の高い分析ができるはずです。) この分析を行うメリットはただ一つ。「正解に近づくことができる」です。出題者は、傍線部をきっかけ(口実)に何かを問おうとしています。その傍線部を見てあげると、出題者の意図がじわじわ見えてくるんですよ。出題者の意図が分かれば、解答の方向性が見えてきます。「ああ、きっとこういうことを問いたいんだなあ」「きっとこれを探させたいんだなあ」と。となれは、正解に近づく可能性がぐんと高くなる。 では具体的にどんな分析をすればいいのか。それが以下の三点です。 ◎傍線部分析 (1)主語・述語を押さえ、傍線部を単純化(要約)する。 (2)省略を補う ※指示語、主語「~は(が)」や限定条件「~においては」など (3)対比を整理 意外とおろそかにしがちなのが(1)です。要するに、英語における構文解析と同じで、傍線部の文構造をまずは捉えようということです。短い文であればそんなことはしなくてもいいでしょうが、特に長い文になると、構造が複雑になってきますから、そこで主述の明確化が必要になります。そして(2)です。傍線問題では出題者はどんなところに傍線を引くと思いますか。わりと多いのが、「傍線部を読んだだけでは情報が不完全」だと感じられる箇所に引くというパターンです。不完全であればあるほど、前後から情報を補う必要があります。その作業をやってほしいですね。ちなみに「限定条件」というのを入れましたが、これはめちゃくちゃ重要です。例えばあなたが友達に「明日はいつなら会える?」と聞いたとする。友達は「夕方以降であれば、いつでも大丈夫ですよ」と答えた。このとき、「夕方以降であれば」という限定条件がかなり重要であるということ、わかりますか。「いつでも大丈夫」という表現に制限がかかっています。こういうところを見落とすとコミュニケーションは破綻してしまいますから、現代文の問題を解くときも、このあたりは意識してください。要は、述語にかかってくる要素(主語や修飾語)をしっかり押さえることが大事になってきます。そして最後に(3)です。対比というのはめちゃくちゃ重要で、本文中に対比が出てくると間違いなく狙われる、というレベルのものなのですが、意外とみんなこれに気付きません。なのでここに入れました。対比にもさまざまなパターンがあるので、そのすべてをここで語るのは大変ですが、ひとまず、「対比をつくることば」として、否定、差異、比較、変化、逆説(一見矛盾、実は真理)などを知っておくとよいでしょう。 さて、ここまで分析を行えば、解答の方向性がかなり明確になると思いませんか。問題によってはこれで既に解答できるものもあるでしょう。例えば、傍線部中に指示語があって、その指示内容の理解が出来ていれば解答可能な問題を出題者が作ったとする。となれば、ここまで述べてきた「分析」で既に解答根拠は拾いきれているわけですから、そのまま選択肢に飛び込んでいけば正解が選べますし、記述問題であればそれを書いてしまえばマルがもらえますね。 ちょっとこれは余談になるのですが、今後問題を解くとき、皆さんは「この問題を解くためには、どんな情報を集めればいいのか(何が必要か)」ということに対し、もっと自覚的になってください。例えば、傍線部中に指示語が入っていたときに、それは一概に「指示語問題」とは言い難くて、 A 指示語の指示内容を補えば十分なパターン B 指示語の指示内容に加え、もう一つ別のキーワードを言い換えさせるパターン C 指示語の指示内容を踏まえたうえで、傍線部の理由を探させるパターン D 指示語の指示内容を補ってもほぼ意味がないパターン など、いろいろあるんですよ。皆さん、一本のペットボトルをイメージしてみてください。このペットボトルに入るジュースが満タンになった状態を「根拠が拾いきれた状態」であるとしたときに、そこにたまっていくジュースの内訳がどうなっているべきなのか。そこを考えてみてください。上記のA~Dをそれぞれ考えてみると、「指示語率100%」のジュースがA、「指示語率50%」ならBやC、「指示語率10%」ならDです。こういうことを解きながらイメージできるのかどうか。これってすごく大事です。これができないと、「指示語があるから指示語の問題だ!」のように、杓子定規的にしか問題が解けなくなってしまいます。この本を読んでいる皆さんにはそうはなってもらいたくない。なので「ジュースの割合」、言い換えれは「問われている実質の内訳」ということにもこだわってみてくださいね。 さて、本題に戻ります。「傍線部にぶつかる→傍線部を分析」。ここまでやったら、あとは「設問要求の確認→それに応じて根拠を拾う」という作業をやっていくのみです。ここで初めて設問のチラ見です。現代文の設問はの大半はどういうことか」と「なぜか」ですから、このそれぞれの解法をマスターしてしまえばいいですね。では、まとめます。 ◎「どういうことか」 ①換言すべき表現に着目 →直行型か経由型かを意識! 直行型 = 傍線部→選択肢 経由型 = 傍線部→前後→選択肢 →「言い換えの連鎖」を押さえよ! ②補充すべき内容が他にないか考える →主に「理由」 ◎「なぜか」 ①結果(論証責任が生じている言葉)を強く押さえる ※基本は主語+述語 ②結果につながる条件(理由の一部を構成するもの)があれば押さえる→そこから説明をスタート ③根拠を拾う 因果関係を表す表現は必ず押さえる 接続語タイプ:「だから〈傍〉」「〈傍〉~から」 熟語タイプ:「原因」「背景」「影響」「関係」 因果関係の成立を確認 … 拾った根拠に「だから」をつけて傍線部につなげられるか? さあ、この二つの解法を飲み込むことができれば皆さんの現代文の能力は飛躍的に向上しますよ。では説明します。まず「どういうことか」に関してですが、この設問要求の本質は、「傍線部が不完全な内容なので、完全な内容に言い換えてくれ」です。例えば、「近年、成人式で暴れる猿がいる」みたいな文があったとします。こういう内容があると、当然、「どういうこと?」って突っ込みたくなりますよね。それは、「猿」という比喩があることによって、傍線部がある意味「不完全」になっているからです。比喩というのはあるものをたとえることによって「間接的に」表現しようとする技法なわけですからね。当然、直接的な内容に言い換えてあげる必要があります。今回のこの例文の場合、言い換えてあげると、結果的に「近年、成人式で暴れるような、モラルの低い人間がいる」という感じでしょうか。こんなふうに言い換えることを要求しているわけです。ですから皆さんは、まず換言すべき表現に着目し、それを言い換える必要があります。そして、その言い換えが本文中(の傍線部以外の箇所)にあるのかないのかによって、解答の方向性が変わってきます。もし「ない」のであれば、直行型。つまり、頭でイメージしたうえでいきなり選択肢に飛び込んでしまえ、ということです。一方「ある」のであれば、当然、それを傍線部前後からつかまえて、そのうえで選択肢に飛び込もう、ということになります。これで基本的には解けるのですが、②「補充すべき内容が他にないか考える」、これも意識してみてください。わりと世間では、「どういうことか=言い換え」というのが浸透していて、傍線部を言い換えさえすればそれで十分、みたいな認識もあるようですが、僕はそうは思いませんね。問題をたくさん解いていると、傍線部の「理由」を問うパターンも結構あったりします。つまり、傍線部が「A」となっていたときに、通常、選択肢を「Aの言い換え」オンリーで構成するところを、「Bなので、A」と構成する。こういうパターンもよくあるんです。ですから、これは、傍線部を分析するなかで、「今回は言い換えただけではダメっぽいなあ。理由も考えないとなあ」と気付いてやる必要があります。え?そんなこと気付かない? だから手順化しておくんです。手順に入れて、毎回意識してやることで、「気付く頭」が作られます。 そして次に「なぜか」に関してです。「なぜか」の問題は、言い換えれば理由の問題です。ではそもそもどういうときに理由が問われるのかといえば、「傍線部単独では、理由の説明が必要になる(=非自明性がある)」場合です。先ほど出した成人式の例をいじくってみましょうか。例えば、「近年、成人式で暴れるようなモラルの低い人間が増えてきた」とあったとします。すると「なんで?」と突っ込みたくなる。逆にこの文がなんの理由・前提もなく受け入れられることはありません。つまり自明的ではない(非自明性がある)。こういうときに理由を問いたくなるんです。解答の方針としては、「どういう前提を足せばそれが帰結するか」「何を補足すればスムーズにつながるか」といった方向で考えるのが基本になります。となれば、根拠を拾うときの頭の動かし方はこんな感じでしょうか。①なんでそういう人間が「増えてきた」んだろう(=結果を押さえる)。②「近年」、何か変化が起こったんだろう。それはなんだろう(=結果につながる条件を押さえる)。③傍線部前後から「近年」の変化を探す。おおむねこんな解き方になると思います。 さて、ここまで書いてきて、ただいまコミケ当日の朝五時前。そろそろ印刷をしないと間に合わない……。というわけで、最後に「付録」的なものを載せて終わりにしたいと思います。 付録 ~「読む」「解く」とはそもそもどんな作業か~ 【読む】 ・設問にたどりつくまでの読解に関しては、「大まかな内容把握」ができればよい。「大まか」に基準を設けるならば、「どこに何が書いてあったかがわかる(本文を必要に応じて参照できる)」ことができたかどうか、です。 ・そして、大まかな内容把握をするためには、ただ読むだけではダメです。最低限、以下のような意識付けは必要ではないでしょうか。 小説文(物語文) 〈主人公の心情の変化を描いた文章〉 → 「どんな状況(場面)で、誰がどんな心情を抱き、それがどのような描写として描かれているか」といったことを追いかける。 小学生に指導するなら、低~中学年には「状況」の把握をまずは手舘させ、高学年には「心情」や「描写」の把握も加えてやらせられればよいでしょう。 説明文・論説文・評論文 〈何かを主張、ないしは説明するために書かれた文章〉 → 小説と異なり、主流(=筆者の主張)と傍流(=具体例・比喩・引用文)にある程度分けられます。 そうした「強弱」を意識しながら、筆者の主張を押さえていくような読みが必要でしょう。 随筆文 〈筆者が自分の体験をもとに意見を述べた文章〉 → 前二者の中間、と捉えればよいでしょう。体験ベースで書かれますから、まずはそこでの筆者の心情を小説文読解と同じスタンスで追いかけます。 そして、体験を踏まえて筆者の意見がその後述べられるはずですから、そこでの主張を、説明文や論説文と同じスタンスでくみ取ります。 【解く】 ・設問要求への意識をまずは高めるべきです。 特に「どういうことか」「なぜか」といった問題が何を問うているのか、きちんと区別しましょう。 ・設問に付加された条件設定への意識を高めることもまた重要です。 特に抜き出し問題に関しては、問題文の中の条件をきちんとインプットすることで解答の探しやすさがアップします。 ・次いで、傍線部や空欄といった、設問設置箇所とその周辺をじっくり分析することが大切です。 そりゃそうですよね。傍線問題は、傍線に関連して問いが作られます。空欄問題は、空欄の前後の情報から空欄に入る言葉が推測できるからこそ設置されます。 (傍線問題の中には、傍線部を分析したところであまり発展性がないというような問題もたまにありますが。) ・傍線部や空欄あたりを分析したときに、どの言葉に注目するのかはかなり重要になってきます。 「注目すべき言葉」をある程度体系的に示してあげることは重要です。そこを起点としてアプローチしていくわけですから。 ◎注目すべき表現とそれへの対応 言い換えるうえで重要な表現 (1)中身を明らかにすべき言葉 指示語→指示内容を明らかに ※「指示語」が決め手になる問題とならない問題(指示内容が薄いときなど)があるので、 訓練しながら慣れること! 入れ物表現 「○○って何?」(Aの性質、本質、特徴、意味)→Aの中身を探す 形容詞・形容動詞的な表現 「どう○○?」(価値判断)「Aだ」→何がどうAなのか レトリック(主に比喩)→一般化 類比表現(似ている、同じ)→共通点を考える 「AもBも~」 (2)それ自体の意味を明らかにすべき言葉 慣用句→一般化 筆者独自の表現、専門用語→言い換えや定義を探す 対比のバリエーション 露骨な対比表現(対立、違う・異なる)→相違点 「Aは~だが、Bは…」 一般論と筆者の主張(AではなくB、AしかしB)→Aを打ち消すような説明、Bにつながる説明を探す 否定表現(Aは誤り、間違い、Aでは不十分、Aではない)→デメリットと本来のあり方(肯定)→「BはダメでAがヨイ」(〇?の図式) 逆説表現(不思議、Aと同時にB)→「本来AなのにB」「AだがB」(対応する対比を別の箇所に探す) 変化(変化、変更、〇〇化、ようになる)→AからBへ(矢印の図式) 理由問題なら変化のきっかけ・タイミングを探す ◎「条件(理由の一部)」のパターン ①AはBだ、AとはBだ→Aの説明かつBにつながる説明を探す ②AするとBだ、AならばB、AしてもB→Aの結果かつBの原因を探す(途中を埋める) ③Aにとって、Aにおいて→Aの立場・状況についての説明を探す ④Aが[こそ]必要・大切・不可欠、Aすべきだ、Aしなければならない→Aのメリット・目的を探す orAしないデメリット ◎ 根拠の拾い方 (1)文章構成からアプローチ (2)対比は整理(ないしは対比相手の説明をカット) →選択肢の切り分けが容易になる (3)具体例はカット(ないしは抽象化) (4)シンプルに「探す」「追いかける」 ※理由の場合 → Aの説明・結果、Bにつながる説明を探す → 因果関係の成立を確認 ◎文章構成からのアプローチ →傍線部がその意味段落内で前置なのか後置なのか。 *前置=これから詳しく説明することを先にまとめている=オープン(これから開く) *後置=これまで説明したことをまとめている=クローズ(そこで閉じる) *よくある型として、以下の論展開を押さえておく。 一般論→逆接→(問題提起)→主張A→具体例・理由→主張A ※「具体例・理由」の部分で、一般論と主張のギャップを埋めている。 ◎構文変換 ①強調構文「~のは(のが)Aだ」→Aは~する。(例)残ったのは悔しさだけだった。→悔しさだけが残った。 ②無生物主語構文「AはBにCさせる」→AによってBはC 3大アプローチ そもそも論として、現代文の問題へのアプローチ法には大きく分けて以下の3つがあります。教える側がこれを自覚・意識することはかなり大切だと考えます。 ①文章構成(論理展開)からアプローチ → 文学的文章なら心情の変化、説明的文章なら筆者の主張をむき出しにする(当然、そこが解答根拠になりやすい) ②設問要求(出題者の条件設定)からアプローチ → 「この問題が出たらこういう手順で解く!」といったものを意識する ③選択肢からアプローチ → ①②が出来ていることが前提。拾った根拠と選択肢を同定する。選択肢判断のときならではのテクニックもある 第2章 方法論の実践 (例題①)傍線部のときののび太の心情は? ジャイアンに殴られて、のび太は①泣いた。そして②ドラえもんのところへ行った。道具を出してもらった。 (例題②)傍線部の理由は? 僕は居間でテレビを見ていた。そしたらお母さんが、宿題をなかなかやり始めない弟を叱っていた。僕はあわてて自室にもどり勉強をはじめた。 例題1 あなたは、いまどこにいるのだろうか。 あなたがいまいるのは、本屋さんだろうか。図書館だろうか。カフェだろうか。それとも自分の部屋だろうか。どこが一番落ち着いて本が読めるのだろう。 シーンという耳鳴りみたいな音が聞こえてきそうな静かな図書館でないと落ち着いて本が読めない人もいるし、逆にカフェのバックグラウンド・ミュージックがかかっていないと落ち着いて本が読めない人もいる。ぼくの町のコーヒー店には、毎日のように夕方になると本を読みに来るおじいさんがいる。家に本を読む場所がないのではなくて、たぶんそのコーヒー店がいいのだろう。 電車の中でも本が読める人は多い。ぼくもそうだ。通勤電車の中では、幅を取らない新書を、しかも自分の専門外の新書を読むことにしている。電車の中は、会話もろくにできないくらいうるさい。うるさいのに落ち着いて本が読めるのはどこかヘンな気もしている。「落ち着いて本が読める」とはどういうことだろう。それは、周りが気にならないということだ。では、その「周り」とはなんだろう。周りの人のことだろうか。ちょっとした雑音のことだろうか。たぶん、そうではない。①本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。だから、ふつう自分の体を気にしなくてもいいような姿勢を整えてから、ぼくたちは本を読む。本に没頭しているときには自分の体を感じていない。体がかゆくなったりくすぐったくなったりしたら、読書に集中できない。読書に体はじゃまなのだ。 もっとじゃまなものがある。それは、自分の意識だ。そもそも自分の体がじゃまだと感じるのは、意識が体に向かっているからである。しかし、本の世界に入り込んでいるときには、ぼくたちは自分の体どころか、自分が自分であることさえ忘れてしまっている。つまり、自分を感じていない。自分の意識が全部本の中に入ってしまって、自分を感じるゆとりもないはずだ。そういう状態を作るためにわざわざ音楽をかける人もいる。別に音楽を聴いているわけではないだろう。意識が自分に向かわないようにすればそれでいいのだ。それが「読書に没頭する」ことだ。 (平成23年 八王子東高校〔四〕 石原千秋「未来形の読書術」) 問1 傍線部①「本を読むぼくたちにとって一番「うるさい」のは自分の体だ。」とあるが、その理由として最も適切なものを、次のうちから選びなさい。 ア 落ち着いた場所で本を読もうとしても、それにふさわしい場所は、そのときの自分の体の調子に影響されてかわるから。 イ 自分では本を読もうと思っていても、自分の体は他のことをしたがっていて、本に意識を集中することが難しくなるから。 ウ 落ち着いて本を読もうとしても、周囲の雑音が絶えず自分の耳に入ってきて、どうしても自分の体を意識してしまうから。 エ 本を読むことに集中しようと思っても、まず自分の体に意識が向かってしまうと、なかなか本の世界に没頭できないから。 例題2 次の文章を読み、あとの問いに答えなさい。 詩歌などの創作は個性の表現であると、一般には考えられている。二十世紀になってそれに対して、異論を提出したのが、T・S・エリオットである。 エリオットは「伝統と個人の才能」で言う。詩人はつねに、自己をより価値のあるものに服従させなくてはならない。芸術の発達は不断の自己犠牲であり、不断の個性の消滅である。芸術とはこの脱個性化の過程にほかならない。 そういうことをのべたあとで、エリオットは有名なアナロジーをもち出す。 「詩の創造に際して起るのは、酸素と二酸化炭素(亜硫酸ガス)とのあるところへ、プラチナのフィラメントを入れたときに起る化学反応に似ている」、というのである。後年、この化学的知識は正確でないと言われたけれども、それはともかく、これは触媒反応といわれるものである。 (中略) 詩人は自分の感情を詩にするのだ、個性を表現するのである、という常識に対して、自分を出してはいけない、とした。個性を脱却しなくてはならないというのである。それでは、個性の役割はどうなるのか。そこで、触媒の考えが援用される。 酸素と亜硫酸ガスをいっしょにしただけでは化合はおこらない。そこへプラチナを入れると、化学反応がおこる。ところが、その結果の化合物の中にはプラチナは入っていない。プラチナは完全に中立的に、化合に立ち会い、化合をおこしただけである。 詩人の個性もこのプラチナのごとくあるべきで、それ自体を表現するのではない。その個性が立ち会わなければ決して化合しないようなものを、化合させるところで、"個性的"でありうる。 これは、それまでの芸術的創造の考えに一石を投ずることになり、エリオットの"インパーソナル・セオリー"(没個性説)と呼ばれて有名になった。 欧米では、この考え方は斬新であったけれども、われわれの国の文芸では、さして珍しいものではない。 もともと、わが国の詩歌は、主観の生の表出を嫌い、象徴的に、あるいは、比喩的に心理を表出する方法を洗練させてきた。その端的な例が俳句である。 俳句では、主観は、花鳥風月に仮託されて、間接にしかあらわれない。自然事象の結合は、俳人の主観の介在によってのみ行なわれるけれども、主観がぎらぎら表面に出ているような作品は格が低くなる。主観が積極的に作用しているのは、小さく個性的な作品を生み出す。 真にすぐれた句を生むのは、俳人の主観がいわば、受動的に働いて、あらわれるさまざまな素材が、自然に結び合うのを許す場を提供するときである。一見して、没個性的に見えるであろうこういう作品においてこそ、大きな個性が生かされる、と考える。 (2012年 立川高校〔四〕 外山滋比古「思考の整理学」) 問 傍線部について、その理由として最も適切なものを次のうちから選びなさい。 ア 欧米では一つの事象を個性的に表現することを重視したが、日本では主観を積極的に作用させる技法がもてはやされたから。 イ 欧米では主観が個性を表現するものと考えられてきたが、日本では客観的な表現の中だけに個性が表れると考えられたから。 ウ 欧米では主観を排して間接的に表現する技法が未発達だったが、日本では象徴的に心理を表す方法を洗練してきたから。 エ 欧米では主観を象徴的に表現するという伝統があったが、日本では個性は必要とされずむしろ邪魔だとされてきたから。 例題3 人間とは、「人間とは何なのか、私とは何なのか」と絶えず問う存在である。頭の中で問わないまでも、こころの中で問うている。とすれば常に出会い、常に傍らにあるモノや人や場所があってはじめて、われわれは自己の役割を知り、自分が何ものかの役に立つことを知り、自分が世界の一部であることを知るだろう。こうしてようやくそれなりの自己確証をえることができるだろう。 ヘーゲルが述べたように、人間が社会的な存在であるのは、人は他者から承認されることで初めて自分自身になるからである。「人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる」という*シューマッハーの言葉は、決して通俗的なヒューマニズムの表明ではなく、人間存在の基本的な条件を述べたものであった。だから、われわれは、一方では、市場経済の無限拡張であるグローバリズムや情報網の世界的な拡張を受け止めると同時に、他方では、小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。「そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えることを学ばなければならない」というわけである。 ひとつの地域は、ただそこに住民票をおいたものが漫然と生活しているのではなく、その土地への愛着や愛郷心によってつながっているはずである。相互に相手がどのような人間であるかを理解でき、地域ぐるみで子供に対して一定の価値観や道徳基準を教育するものである。「共感」があり、その「共感」のうちに自然と道徳心が生じるのが、地域共同体というものである。 組織や集団においてもまた、ただ仕事の分担によってのみ人々はつながっているのではない。仕事によってつながるためにも、ある程度は他人の性格や人柄を知らなければならないだろう。さらにいえばそれだけではなく、ある他人の別の他人に対する関係も知っておかなければならない。一人一人のお互いに対する関わり方もわかっている必要がある。そうして初めて組織や集団はうまくゆく。これは、巨大組織では無理であって、それが可能なある適正な規模というものがあるのだ。こうした相互に信頼できる仲間があって初めて、人は「組織人」「集団人」として何とかやってゆけるであろう。 逆にいえば、この種の、相互に信頼でき、相互に相手の性格や事情を了解できる組織や集団を作れない社会では、人々は、日常の中で神経をすり減らし、人間関係はとげとげしく、創造性に欠け、仕事への責任感を持ちえないであろう。組織と仕事は、人々の道徳性の母体にもなるのである。多くのものが、道徳性や規律を身に付けるのは、個人主義によってではなく、適切な組織においてである。 問 「小規模な地域、組織、場、集団、仕事を保持してゆかなければならない。」とあるが、筆者がこのように述べたのはなぜか。その理由として最も適切なものを、次のうちから選べ。 ア 人間は地域社会の中で一定の価値観や道徳基準を与えられるため、個人主義的な規律で作動しているような会社組織を知るだけでは上手に人間関係を作っていけないから。 イ 人間は経済や情報の拡張や世界の普遍性について理解を深めるとともに、適正な規模の地域社会や組織の中で価値観や道徳性を身に付けて社会的な存在となっていくから。 ウ 人間は相互に相手を理解できる地域との一体感によってつながっており、居住している土地への愛着心が生まれることによって一定の価値観や道徳心が育まれていくから。 エ 人間は相互に信頼したり事情を了解できる適正な規模の組織や集団があって円滑に暮らしていけるので、とげとげしく創造性に欠ける社会の中では生活していけないから。 例題4 いわゆる自然派というヨーロッパ近代文学思想の移入(あやまれる)以来、日本文学はわが人生をふりかえって、過去の生活をいつわりなく紙上に再現することを文学と信じ、未来のために、人生を、理想を、つくりだすために意欲する文学の正しい宿命を忘れた。 単にわが人生を複写するのは綴方(つづりかた)の領域にすぎぬ。そして大の男が綴方に没頭し、面白くもない綴方を、面白くない故に 純粋だの、深遠だの、神聖だなどと途方もないことを言っていた。 小説というものは、我が理想を紙上にもとめる業くれで、理想とは、現実にみたされざるもの、即ち、未来に、人間をあらゆるその可能性の中に探し求め、つかみだしたいという意欲の果であり、個性的な思想に貫かれ、その思想は、常に書き、書きつづけることによって、上昇しつつあるものなのである。 けれども小説は思想そのものではない。思想家が、その思想の解説の方便に小説の形式を用いるという便宜的なものではな い。即ち、芸術というものは、たしかに絶対なもので、小説の形式によってしかわが思想を語り得ないという先天的な資質を必要とする。 小説は、思想を語るものではあっても、思想そのものではなく、読物だ。即ち、小説というものは、思想する人と、小説の戯作者と二人の合作になるもので、戯作の広さ深さ、戯作性の振幅によって、思想自体が発育伸展する性質のものである。 明治末期の自然派の文学以来、戯作性というものが通俗なるもの、純粋ならざるものとして、純文学の埒外(らちがい)へ捨て去られた。それは、実際に於ては、むしろ文学精神の退化であることを、彼らは気付かなかった。 即ち彼らは、戯作性を否定し、小説の面白さを否定することが、実は彼らの思想性の貧困に由来することを知らなかった。 彼らには思想がなかった。理想がなかった。人生を未来に託して、常により高く生き抜こうとする必死な意欲を知らなかった。 「思想性が稀薄であるから、戯作性、面白さと、だき合うことができなくて、戯作性というものによって文学の純粋性が汚されるような被害妄想をいだいたわけだが、本当のところは、戯作性との合作に堪えうるだけの逞しい思想性がなかったからに 外ならぬ。 (坂口安吾「理想の女」より) 問 傍線部のように言うのはどうしてか、わかりやすく説明せよ。 (解答例1 三木作成) 明治末期にヨーロッパ近代文学思想たる自然派が日本に誤解されたまま移入されて以来、自身の過去をありのままに再現することを目指す文学観が肯定されると、小説の面白さたる戯作性が純粋性なき通俗なるものとして否定されるようになったが、この事態は、実のところ、理想を求めて意欲するという文学本来の宿命が看過され、作家自身の持つ思想性が、戯作性と併存不可能なほどに乏しくなっていく状況を露呈したものだと言えるから。 (解答例2 河合塾) 戯作性と思想性とが相即しながら、より高い人間精神の表現へと発展してゆくのが文学精神の本質であるのに、過去の人生を表現するにとどまり戯作性を通俗的で不純なものとして排除する自然派以降の文学傾向は、未来に向けて思想を発展させる契機を自ら捨て去っているものであるから。